Q 私たちが色覚についてよく知らないことが問題なのでしょうか。
A 「色覚についてもっと理解してくれ」と訴えているわけではありません。むしろ、「色覚そのもの」については、あまり触れていません。専門外だからです。
また、ここで「差別」というのは、「非当事者が当事者に対してしていること」ではありません。ですから、非当事者に向かって「こういう言葉づかいはやめてくれ」と訴えているようなわけでもないのです。
そうではなくて、人を部類分けする「社会」がそこにある、のです。
いわゆる非当事者も実はその社会によって部類分けされています。なのに、自分は当事者ではない、だから問題を感知することもそれについて考えることもできない、と感じるところに、当事者・非当事者双方における「語りづらさ」の大きな要因があるように思います。
私自身、当事者なのに、自分の色覚とかかわる社会問題について、かなり長い間、無頓着でいました。当事者も、何らかの特性を持つというだけで自動的に意見や態度を持つようになるわけではないのです。
私が拙著でめざしたことの一つは、その自分をよく見つめることです。あるいは、経験者が書いた手記やエッセイを深読みしてみることです。
読み手に求めるとしたら、その「読み書きのワーク」を刺激として、自分自身とのあいだに新たな対話を起こしてほしい、ということになるでしょうか。それが、他者の声に耳を傾けることにつながるのだと思うのです。
つまり、自分は何の当事者なのか、ということですね。色覚の問題に限らなくてかまいません。誰も完璧ではありえないのが人間ですから、みなが何らかの当事者であるはず。その問いがない世の中にむけて「色覚についての正しい知識」を提供しても、大したちがいは生じないだろうと私は考えているのです。
そのうえで言えば、「知らない」こと以上に「すでに知っている」ことのほうが問題だと、私は考えています。「色覚異常」という言葉が、日常の私たちの経験において、初めて聞く外国語のように意味不明なものではなく(「1型2色覚」と比較してみてください)、すでに特定の意味を持っていないでしょうか。特に「色盲」と言えば。その「通りの良さ」に誤解の落とし穴がひそんでいるのです。
この場合、「すでに知っていること」とは「正しい知識」のことではありません。むしろ誤った知識です。でも私たちはその知識に基づいて考え、行動します。たとえば、大正時代にはすでに「政治的色盲」という手作りの比喩があったのですが、もしかりにいま用いられたとして、なんらかの「理解」が瞬時に成り立ちはしないでしょうか。そこが重要だと思うのです。
言い換えると、こういうことになります。「知らない」ことが問題なのではありません。「何をいかにして知っているか」です(繰り返しますが、この場合の「知っている」は「科学的に見て正しい知識」という意味ではなく、「ともあれ実際の言動のために用いられている資源としての知識」という意味です)。
私たちが、「色弱」という明らかに学術に由来する言葉を日常的に「理解」することができれば「用いる」こともでき、検査が必要であるに違いないと「推論」することさえできてしまうのは、いったい「いかにしてか」と。