夕闇迫れば

All cats in the dark

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論理のさかだち

 Q 差別だとの指摘を受け、学校での色覚検査が必須でなくなったことから、かえって当事者が自分の色覚異常に気づくことができないので、不利益が生じている、だから検査を再開することが必要だ、との意見があります。

 A 「自覚の必要」とはよく言われることで、それが当人の進路決定にとって利益になるとは、「抽象的には正しい」と思います。「医学的には正しい」とも言えるかもしれません(医学とは何かという問題を度外視すれば)。けれども「現実的には正しくない」と思います。「どんな社会の中でなら」という重要な問いが欠けているからです。

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 わかりやすくするため、例をとりかえて、「健康診断は是か非か」という問いにしてみましょう。多くの人が「是」と答えると思います。自分の健康状態は把握しておきたいし、もし不安が見つかったら早めに対処したい。むしろその機会がないほうがおかしい、と大多数の人が考えるでしょう。
 しかし、もしもあなたが、悪夢のようなダーク社会「 (エックス)」に住んでいたとしたら、どうでしょうか。

 この「ダーク社会 X 」では、病欠が減点になってゆくのです。学校や職場を病気で休むたびに成績や評価が下がってゆくとか、医療保険を使うたび保険証カードにマイナスポイントが蓄積されてゆく、というふうに。そして、受験生なら受験資格を失い、仕事だったら給料が減らされていったりクビになったりする。マイナスポイントの多い人は医療保険に入れないようになる、と。
 しかも、この「ダーク社会  」では、社会のスピードがアップしてゆくばかりなのです。道具や機械がどんどん進歩し、「これで仕事がラクになるかも」と期待しても、むしろそれで社会全体のスピードがどんどん上がり、一昔まえの100%ではもう間に合わず、120%とか130%の生産性とか効率性を求められるようになり、多くの人がそれに起因する健康不安を抱え、子どもの成長もそれに追いつけなくなって、その結果、ますます多くの人が「社会に適応できない」とか「弱い人」と見なされてしまう、と。

 さて、どうでしょう。この架空の(しかし案外にリアリティ感覚を覚えるところがあるはずの)「ダーク社会  」において、定期的に健康診断を受ける制度があるとして、上のように素直に受け容れられる人が、どのくらいあるでしょう。
 その社会で医師たちが「検査を受けておいたほうがいいですよ」と、医学的にはその通り正しいことを述べたとして、それがそのままの意味で通るでしょうか。
 むしろ、「これは監視か?」とか「ハードルを上げるだけ上げておいて不適応扱いとは何事だ」と、応じたくならないでしょうか。医学の専門家たちに「この社会状況について医学の見地から改善意見を出してはくれないのか」と問いたくならないでしょうか。

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 「どんな社会がそこにあるか」によって、言葉の意味、検査の意味の「天地」が大きく異なる点に注意してください。色覚特性を単純に病気などと比べるわけにはゆかないでしょうけれども、そこは「人はそもそも不ぞろいなもの」等と読み替えていただくとして。

 おわかりになると思いますが、その「ダーク社会  」に必要なのは、個々人に診療や検査を勧める以前に、「誰にとっても身体的な特性はいかんともしがたいもの、むやみにマイナス評価してはいけません」という考え方を、まずは社会常識にする、ということです。
 あるいは、「人間がひたすら規格化されたり、人間に要求される条件が厳しくなる一方の世の中は、どこか根本のところでまちがっている。アクセルばかりではなくブレーキやハンドルも必要だ」と訴える、ということです。

 それがないとしたら、検査は「社会への合否テスト」にすぎなくなってしまうでしょう。なにか支障が予想されるとの指摘があれば、「戦力外通知」になってしまうわけです。私たちはどんなにそれにおびえながら人生を送らなければならなくなるでしょうか。

 健康診断を私たちが安心して受け容れることができるのは、基本的な人権とか労働者の権利という考え方、それを実効性あるものにしている法の体系、皆が加入できる医療保険などなどがもう「当たり前」のように定着していて、それが私たちを守ってくれているからだとわかります。

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 「多様性の尊重」が大前提としてある社会なら、自分の身体の特性に関するインフォーメーションを求める権利が私たちにはある、と述べることができるでしょうし、それがそのままの意味で通るでしょう。検査はその機会を提供するものだと言うこともできるでしょう。
 当事者における自覚の必要とか社会とのおりあいとかは、そうした下地があって初めて言いうるものだと思うのです。

 単純に図式化すれば、「社会が勝手に人間を選別するがままに放置する」か、「どんな社会に住みたいか、人間が選ぶことができるよう、尽力する」か、の違いです。
 前者において特定の身体的特性の指摘は最後通告になりかねませんが、後者においてその告知は、よりよく生きるための情報です。
 最後通告になるか生きるための情報になるかは、社会の状態に大きく規定されることであって、個人の受け止め方の問題ではありません。

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 さて、私たちの社会の現状を見てみましょう。残念ながら、多様性が尊重されているとはあまり思えません。「そもそも人間がよりよく生きるために社会を作ってるんじゃないか?」という考え方よりも「社会の現状に合わせて生きろ」という考え方が通用しがちです。うっかりすると、完璧に健常な(?)労働力であって初めて存在がようよう認められるような力学さえ作動します。
 これを「仕方ない」と受け止め、警戒を怠っていると、私たちの住んでいる社会は「ダーク社会  」に近づいてしまうのです。
 そのような社会では、検査の結果としての「色覚異常」が当人の進路を過度に狭めてしまう危険が生じると想像できます。つまり、検査結果を「正当な理由」とした就業制限を多発させてしまうかもしれません。

 これは「杞憂」レベルの懸念ではないように思います。
 現在は「史上かつてないカラフル社会」。眼科の専門家のなかにも、かつては存在しなかった仕事、たとえばサーバー監視業務などが色弱者には向かないんじゃないか?という疑念が生じたりしています。これを関係者や当事者が勝手に拡大解釈して「じゃあ色とりどりのネット環境は? パソコンの仕事は?」のように一般化していったら、いったいどんなことになるでしょうか? 無秩序な多色化を放置しておいて、あるいは周囲の配慮や協力によって解決できることを探しもしないでおいて、「色の識別をする仕事がありますから」といった程度の説明を許容していたら?

 その危険をはらんだ状況のもとで、ただ「避けておくべき進路を前もって知っておくこと」が「当事者の利益」だとされるなら、検査が、事実上の効果として、多様性を容認しない社会の現状を、上塗りしてしまうことになるでしょう。社会の現状に合わせて人を部類分けすることがますます正当化されてしまうでしょう。−−問題は、その正当化の論理の現実的な効果や作用なのです。

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 もちろん、色覚にどんな特性があろうとおかまいなしに何でもやらせるべきだ、などというのではありません。そうではなく、当事者の自覚的な人生の選択、社会との折り合いというのは、もっと人間を大切にしようとし、「できうる限りの参加を受け入れようと努力する社会」において初めて言いうることではないか、というのです。それなしに「やめときなさい」とばかり言うことのおかしさを考えているのです。

 ですから、検査は当事者のためのものなのだ、という理屈を展開するなら、そのためにまず必要なのは、多様性の尊重を社会にむけて啓発することであって、それなしにまず当事者に「自覚」を迫るとしたら、それは本末がさかさまになった論理というべきではないでしょうか。
 色覚検査に対する「差別だ」との批判が問題にしてきたことの核心も、この論理のさかだちにあると私は考えています。

 □ 2018年1月8日版

□ 2016年2月7日初版 □ 2016年7月・2017年3月・10月改訂

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