Q 音痴な人が音楽をめざしたら大変だ。それと同じく色覚異常も個性なのだから、それを自覚しておくことはやはり必要なことではないか? そう言われると、不向きな道を知っておくことも当然なのでは、と思えます。
A よく出される例です。第一に、確かに、個別具体的には、当の人の色覚特性と、その人の職業とか活動で求められることになる色覚とを、きちんと突き合わせておくべきケースもあるでしょう。ただ、それはそのとおり「ケース」であって、十把一からげに言いうることではありません。最初に述べたように色覚は多様であるうえ、その職業や活動にはさまざまな要因が複雑にからむのが通例であるからです。ケースに応じて支障の有無を吟味し、可能な配慮や支援はないのか検討すべきでしょう。そういうことが、色覚に限らず種々の病気とか異常とか障害と呼ばれていることについて、常識のようにおこなわれている社会なら、色覚検査が当人本位で運用されることも期待できるでしょう。
第二に、少なくとも社会学的に見る限り、ここには重大な混同がある、と思います。
音痴はまさに「音痴」です。私は絶対に使いたくない言葉ですが(痴の字が問題だと思うし運動の苦手な人をウンチなどと呼ぶもとになる言葉だから)、それは措くとしても、音痴が「音感異常」と呼ばれることはないでしょう。あるいは、お医者さんから「音感異常です」と告げられて、その同じお医者さんから「まぁ個性ですからあまり気にしないで」と言われても、「じゃあ最初から異常なんて呼ぶなよ」ってことになりますよね。
ジャイアンのように自分の歌の下手さかげんについて「自覚」がなく、むしろ自分の歌は世界一だと酔いしれる人がいるかもしれないとしても、あるいは、そうまでゆかずとも自分で自分を判断することは難しいからといって、「だから就学中に医学的な音感検査を受けておく必要がある」と考える人があるでしょうか。そうしないと音楽の道を志して多大な努力を無駄に重ねてしまう人があるかもしれない、と言って?
言えば言えるかもしれません。「嗅覚に弱点のある人には不向きな道があるのではないか」。実際、とても良い嗅覚が求められる分野ではちゃんとした検査が必要かもしれませんね。けれども、だからといって、誰か、「嗅覚特性に即して支障が予想される分野の一覧リストを作っておこう」と考えるでしょうか。
こう問うてくればわかると思うのですが、色覚は「社会制度化された感覚」であり、それゆえ色覚異常は「医学的カテゴリー」として取り扱われています。そしてなぜそうなるかと言えば、嗅覚や音感とは決定的に異なって、少なくとも19世紀以降、私たちは「正常な」色覚を持つことを前提としたカラフル社会をつくりあげてきてしまっているからです。他の感覚と同列に論じることはできないのではないでしょうか。
色弱は「個性」なのだとよく主張されます。善意でそう言われる場合もあります。しかし、上の社会構造を閑却していてはいけないでしょう。色覚特性を「個性」にするためには、まず、いままで自明視されてきた社会の色彩環境、色彩に関する社会的習慣、色覚についての日常的な推論などを、改めるべきなのです。