夕闇迫れば

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映画「鍵」

 以下は現代史の資料として紹介・コメントするものです。

 谷崎潤一郎原作、市川崑監督。1959年。

 以下、作品の内容がわかってしまうので、ご注意を。

 「色盲」に対する固定観念が、暗号としての物語を読み解くためのコードとして(「鍵」の一つとして)物語に組み込まれている例、と思われる。

 「色盲」の老婆。それは「いろ」から最も遠い(という設定だと解釈しうる)存在だろう。その彼女が、「いろ」を世渡りや自己愛の手段として利用する人々を否定するのである。

 それゆえ、ここでの作劇法における「色盲」は、固定観念による負の烙印と、盲(めしい)こそが真実を明らかにするという聖化との、両方を含んでいるように思われる。

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 一見したところ目立たない存在の家政婦、はな。色盲の老婆である。その彼女が物語の帰趨をにぎり、暗号としての物語を解読するコードになっている。
 脚本や企画書などの資料で検討したわけではなく、私なりの読解にすぎないが−−

 主人公、剣持は、京都の名家で高名な古美術鑑定家。土塀と竹藪に囲まれた古い家屋敷に暮らしている。年老いてなお「いろ」に執着し、秘密裏に医者に通って回春を試みている。また、その病院のインターン医師、木村を、娘である敏子にあてがいつつ(剣持は色気のない娘をまったく愛していないどころか毛嫌いしており、そのくせ従順を求める)、その実、まだ若い妻に木村を近づけることで自分に嫉妬心を起こし、欲情を保とうとしている。
 その妻、郁子は、「いろ」に対する恥じらいと貞節を装いながら、実は、自分が夫にとって人形でしかないことを自覚しており、また、足の悪い夫を毛嫌いしており、それゆえ、彼の戦略を知りつつ知らぬふりで巧みに受け入れ、木村を魅惑しようとする。
 娘、敏子は、年頃の大学生なのだが、化粧や服装はあえて無粋に仕立てられており、「いろ」を全く持たない、と見えて実は木村をすでに受け入れており、さらにその実は自分の無粋さによって彼の愛情を試している。また、覗き見によって剣持の策略を知りつつ、知らぬふりで郁子を木村にけしかけ、夫の母に対する愛情を試すとともに、父の自分に対する愛情をも試そうとしている。
 木村は、まだ若いインターン医師。ゆくゆくは開業することを夢見ている。剣持の紹介で敏子と通じているが、その実、敏子のことを好いてはおらず、デートはたびたびすっぽかし、ただ剣持の後ろ盾や財産をねらっている。つまり、「いろ」を世渡りの手段として利用しようとしている。また、剣持の策略に乗ることで、魅力のない敏子ではなく、妖艶な郁子に近づこうとしている。

 ストーリーは、この「その実は」をめぐるカードゲーム、つまり秘密についていかに知らぬふりをするか、どこまで相手の策略を自分の策略に利用できるか、そのために相手の素知らぬふりがどれだけ「ふり」にすぎないかをいかに暴露していくか、というやりとり、いわば心理サスペンスによって展開してゆく。さっきまで秘密を共有して気兼ねのない、いや、ぞんざいな、あるいは乱暴な言葉使いで話していた二人が、もう一人二人加わった場面では、「ご無沙汰失礼いたしておりました」と、それも台本を棒読みするような演技でその場をとりつくろいつつ、その実は、互いに腹を探り始めるのである。そして、それが進行してゆくほどに、矛盾が蓄積されてゆく。

 剣持は、回春のための注射がたたって、かなりの高血圧になっていた。郁子はそれに気づきながら、素知らぬふりで彼の策略にのることで興奮させ、高血圧を悪化させて、死期を早める。剣持の死は彼女にとって解放であって、初めて日記を書く。しかし、その大前提は、木村と敏子を結婚させることであった。もちろん二人のあいだに愛情がないことは承知している。自分が木村と通じ続けるためにである。
 敏子は、窃視(せっし)や嗾け(けしかけ)、唆し(そそのかし)や誘導によって、木村を紹介してくれた父の真の思惑に気づき、母の策略と不倫にも気づく。母の策略に乗って父を困らせようとするが、身体が弱った父はかえって木村と自分の結婚を正式に進めようとしてしまう。さらに、父の死で木村の算術も明らかになるが、いまや郁子が彼と自分の結婚を父の遺志として継ごうとしている。こうした構図を暴露するにつれ(そのときの表情がいちばん明るいように見えるのだが)誰にも愛されていない自分を自ら確認してしまう。
 木村は、剣持の策略に乗ることで郁子を手に入れるが、それが剣持の死を招くという矛盾に逢着する。剣持が死ぬと、もはや後ろ盾を期待することはできず、また、見かけほどの財産がなかったことまで明らかになってしまった。郁子の色香に心残りはあるが、彼はこの家と手を切ることを考え始める。
 剣持の死は三者三様の意味を持っており、その矛盾はもう抜き差しならぬほどまでに露呈している。

 ラストシーン、まず敏子が木村と郁子を毒殺しようとするが、失敗に終わる。彼女にはこの世界を打ち消すことができないのである。その後、はなが、郁子、敏子、木村を毒殺する。
 はなは自首するが、貞淑な妻が夫の後を追ったと解釈する警察では、ぼんやりしはじめた老人の世迷い言とされ、取り合ってもらえない。郁子が書いた初めての日記が遺書とされた。

 −−「色盲」の「色」が「いろ」と掛けられたメタファーの一例、ではないだろうか。つまり、色盲の老婆、とは、「いろ」の世界から最も遠い存在という意味を与えられて登場しているだろう。その彼女が、「いろ」と親和性の高い「はな」という名を与えられ、感情のこめられた抑揚ある話し方をし、いちばん純粋であって、「いろ」をもてあそぶ人々を「悪い人」として否定するわけである。

 他方、郁子の裸体には砂漠のイメージがかぶせられ、木村と郁子の不倫場面は暗黒となり、木村と敏子の最初のツーショットには寒風が音をたてており、その交情は機関車の連結シーンで描かれる。利害や欲はあろうが「いろ」はない。

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 この比喩的構図のために動員された「色盲」は「例によって」の固定観念である。そうならざるをえまい。彼女は、記号として、「いろ」から遠くなければならないからだ。

 彼女には、赤と緑の区別がまったくできない。しかも、自分が色盲であることを知らない。
 同家には、古い焼き海苔缶(茶缶?)がふたつあり、両者は赤と緑という色によってしか見分けられないほど大きさや形はそっくりである。しかも、二つとも食べ物の容器としての役割は終え、赤い缶には農薬が入っていて日頃は納屋に置いてあり、緑の缶(作品中では「青い缶」と呼ばれている)には磨き粉が入っていて日頃は台所に置いてある。
 ところが、はながそれを取り違え、農薬の入ったほうを台所に置いてあった。郁子が注意しても、はなは、「孫にもようまちがうと言われるんやが、やっぱり色盲ですやろか」のように、それでも自覚しかねている様子である。

 木村もそれに気づく。彼は表情も感情も持たないよう演出されているのだが、このときだけ真顔になって声を荒げる。「きみ! 他のこととちがって人命に関することだから注意しなきゃだめじゃないか」「医学の知識がないから困っちゃうな」。

 −−無知で無自覚、命にかかわる危険にも気づかない色盲。

 だが、そのレッテルを貼る木村自身が、「いろ」を利用しようとする自分の行動こそ命にかかわる危険を含んでいるという自覚に乏しかった、というべきであろう。
 彼の最後のせりふは、「なぜだ、なぜぼくが毒を飲まされなくちゃならないの。ぼくはなんにもしないのに。こんなことになるはずはない」だった。

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 取り違えを指摘されたはながとる行動は不可解である。
 「どっちがどっちかようわからん。そうや、入れ替えといたらまちがわんですむわけや」と、農薬と磨き粉を入れ替えるのである(その結果、赤に殺虫剤が入っていると思い込んでいた敏子の毒殺計画は未遂に終わる)。

 しかし、内容を入れ替えただけでは、両者を識別できないという問題は解決できていないではないか? その疑問はラスト近くで解消される。中身を入れ替えてもわからないと気づいたのであろう、はなは、いまや毒入りとなった緑の缶の底に、マジックで大きく、「どく」と書いてあったのであった。
 形や大きさがそっくりという点を除けば、これが表示法としては正しい対処であろう。

 とすれば、そもそも、農薬と磨き粉という取り違えたら大事に至るものを色でしか区別できない容器に入れてあるこの家の習慣(?)のほうがよほどおかしいわけである。
 −−登場人物たちの「いろ」にもこうやって「どく」と書いてあればわかりやすいのに。命の危険についての無自覚が、色盲の老婆が色盲ゆえに身につけた工夫によって、教えられる。

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 暗号は読み解き可能でなければならない。それゆえ、「色盲」が固定観念のまま取り上げられ、それを上塗りする結果になっている。その脚本こそ、負の烙印について無自覚な比喩を弄する遊びだ、と論評することもできるだろう。
 しかし、古典的作劇法のとおり、盲いた老婆だけが真実を明かす、とも読める。

 ドラマツルギカルに見た場合、けだし「スティグマ」とはこういうものなのだろう。

■ 2016年3月4日

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