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資料

石原忍 年譜

はじめに

 誰であろうと、人の一生には、私生活でも、職業生活でも、社会生活でも、じつにたくさんの出来事がある。それらのどれかにはむすびつきがあり、どれかにはむすびつきがなく、そのむすびつきの有無は見方によって相対的であることもある。そのなかから、どれをピックアップしてその人の歴史とするか。それはとても難しい問題である。

 以下の年表ではこのコーナーの趣旨からして色覚関連のものをピックアップし、あとは一身上の大きな変化(誕生、進学、就職、結婚、没など)を拾ったにとどめた。だからしかし、それは原理上、石原忍の「全記録」などであるわけではなく、最初から「一面的」なものである。

 個人史とか歴史とかはすべてそういったものなのであろう。別の観点からすれば彼がトラホーム予防協会でどんな役割を果たしたのかが重要な事実になるだろうし、また他の観点からすれば彼の新国字研究の進展を並べてみることが意義ある作表になるだろう。さらに別の観点からすれば、彼の大学行政における行動を列挙することが重要であるかもしれない。
 今日のように放射線の問題がクローズアップされる時代になると、石原は、医療被曝の問題を提起した最も早期の人物の一人として想起されるべきことになるかもしれない(偶然、この年表にも採録してあった)。

 年表をつくるとか、伝記を書くといったことは、そのように取捨選択を伴う。それは、これゆえの「おそれ」をもって、しなければならないことなのであろう。

 主題外のことでも、たとえば主な著書の刊行などは、拾っておいた。「色盲検査表」の発明者としてのみ想起されることが多いのだが、仕事はそればかりに限らぬということは、色覚問題について批判的な立場をとるにしても、知っておいてよいと思ったからである。

 なお私にとり資料となるのは文献リストに掲げたような二次資料のみである。資料批判も困難であるうえ、転記ミスもあるやもしれないことを恐れている。表中、年齢は機械的加算であり、実際には誕生日の前後で異なる。回顧録や伝記データなどは、時折、引用しておいた。

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 石原忍 年譜

1900年代 1910年代 1920年代 1930年代 
1940年代 1950年代 1960年代 1970年代
 誕生〜1890年代(明治12〜明治31)

 1879(明治12)

9月25日、東京市麹町区永田町に生まれる。長男。

両親は愛知県(尾張国)の出身。父の氏基(うじもと)は陸軍教導団から砲兵の士官となり、晩年には下関で砲兵連隊長を勤めた人(石原 1941: 127)。

母はレイ。
長男だった。実際には15日の出生だが届けが遅れて25日になったという(岡島 1997a: 328)。

 1882(明治15)年

4月、父の転任で函館へ。

「母から小倉百人一首の本を毎日一首ずつ教えられ、百日でこれを暗唱」(石原 1941: 127)

10月、父の転任で大坂へ。

 1884年(明治17)年 5歳

父の転任で東京へ戻る。小学校(四谷小学校)入学。

 1889(明治22)年 10歳

東多摩郡中野村*へ転居。中野桃園小学校へ転校。

*2007年現在の東京都中野区 。

 1893(明治26)年

父が淡路島へ転任。母の姉の嫁ぎ先=伯父*のところへ預けられる。

神田の開成中学共立学校へ通う。のち、入学試験を受けて飯田町の共立中学校**へ転校。

*伯父は水野遵。当時、衆議院の書記官長。

**のちの東京府立城北中学校、さらにのちの東京府立第四中学校。1904(明治37)年(1904)に市ケ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となる。

 1896(明治29)年

父が台湾へ転任。母と共に中野へ戻る。

 1897(明治30)年

4月、東京府立城北中学校を卒業。

9月、第一高等学校(第3部=医科志望)*合格。 入学は翌年**。

*第1部が法文科、第2部が理工科。

**合格なのだが外国語がドイツ語でなければ入学許可されなかったため、一年ドイツ協会学校の別科に通い、翌年ドイツ語の試験だけを受けて入学。

 1898(明治31)年 19歳 

第一高等学校に入学。寄宿舎に入り、ボート部に所属。

「その頃の一高の生徒は意気衝天の勢で、放課後は弊衣破帽で足駄を履いて本郷通りを闊歩し、夕食後は声を揃えて寮歌を謳ったものでした。今日のような大学への入学試験などはなかったのですから、あまり勉強はしませんでしたが、その当時できた寮歌のうち「春爛漫」とか「嗚呼玉杯」とかとか、今日でもまだ謳われているところをみると、私たちのいた頃が寮歌の全盛時代であったのかも知れません」(石原 1941: 129)。 

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 1900年代(明治34〜明治43)

 1901(明治34)年 22歳 

7月、旧制第一高等学校(医科志望)卒業。

9月、東京大学に進入*。ボート部に所属。

*他に帝国大学はまだ京都しかなく、同窓生は若干名を除いて皆が東大に進学した。入学試験はない。

「ボートの練習もなかなか苦しかったものです。/この苦しい練習が今日まで非常に身のためになって、大概の殊は我慢ができます。実際私の生涯の中にボートの練習ほど苦しい経験は今日まで他にありません。かように苦しい練習を経てきているから大概のことでは人に負けない。困苦欠乏に堪えて敵に打ち勝つという気性は、ボートの練習によって養われて、知らず識らずそれが日常の生活に応用せられているように思われます」(石原 1941: 130)。

 1903(明治36)年 

父が結核で休職、まもなく没。母は内職などして家計を支える。

志願して陸軍の委託学生*となる。

*石原によれば本来は天文学が好きだったのだが父の意見に従って医学に転じた。しかしかれは「開業して人の機嫌をとるのは好まなかった」がゆえ「軍医を志願して陸軍の委託学生になりました」とも述懐している(石原 1941: 130-1)。なお、当時の軍医は現役大学生から試験により公募するかたちで補充された。

 1905(明治38)年 

12月、大学卒業。見習い医官として近衛歩兵第二連隊に入隊。

 1906(明治39)年 

5月、陸軍二等軍医(中尉)に任ぜられる。

 1907(明治40)年 

28歳 10月、結婚。 代々木の借家に移る。

妻となったのは井口琴。陸軍少将=井口五郎の長女である (石原 1941: 132)。

10月、東京第一衛戍病院*に補職。外科室・手術室・レントゲン室に勤務。

内科は誤診が多くて敬遠。外科学が第一志望。眼科学は第二志望 だった。当時の病院長=鶴田禎次郎**から外科の指導を受ける。レントゲン室では当時の限界から保護装置もなく照射作業に従事***。石原は妻の受胎が遅れたのはこのためであるとしている (石原 1941: 133)。

*衛戍病院……えいじゅびょういん。衛戍は軍隊が駐屯すること。衛戍病院 は旧日本陸軍の衛戍地に設置された病院。陸軍病院の旧称。

**鶴田は大正5年に軍医局長となる人物。前任者は森林太郎(鴎外)。

***おそらくは1899年に設置されたシーメンス社製の移動式レントゲン。これを導入した芳賀栄次郎は日露戦争にこれを携行、第四野戦病院にて戦傷治療に使用した。レントゲンによるX線発見は1895年、その後は急速な応用過程にあり、当時としては最新の医療設備だったと思われる。

 1908(明治41)年 29歳 

12月、東京帝国大学大学院に入学*。眼科学を専攻。主任教授は河本重次郎**。ほぼ同時に陸軍一等軍医に進級。

*石原は鶴田院長から「眼科をやるなら大学院へ入学させてやる」との打診があったとしている(石原 1941: 133)が、「軍の要請により」との資料もある(岡島 1997a: 329)。

**「日本近代眼科の父」。1891(明治24)年8月、眼科で初の医学博士。 生涯で論文執筆数が300以上という記録の保持者。1889年から1922年まで東京大学眼科学教室の初代主任教授。

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 1910年代(明治43〜大正8)

 1910(明治43)年 31歳 

12月、大学院修了。陸軍軍医学校教官に*。

*一般外来患者の診療もし、また、軍陣医学の研究--戦傷の処置や衛生、救急法、眼科では視力・色覚・屈折・調節のような徴兵検査に必要な研究、詐病などの研究を含む−−も始めた(須田 1984: 62-3)。

 1912(大正元)年 33歳 

10月、医学研究のためドイツ駐在を命じられる。

11月に出発、森林太郎(森鴎外)=陸軍省医務局長の見送りを受ける(須田 1984: 64)。シベリア鉄道経由でモスクワへ。モスクワで年を越した後、1913年1月にベルリン着。イェナ大学、フライブルク大学、ミュンヘン大学などで見学と研修。

 1914(大正3)年 35歳

8月、第一次大戦勃発し、ロンドンに避難の後、11月に帰国。

陸軍軍医学校教官と同時に済生会病院麹町分院*の医務 、着任。

ドイツ駐在と帰国後の軍医学校と、「私の学術上の作業の主要なものは、大概この間にできたので、私の今日あるは全く陸軍のお陰であります」(石原 1941: 135)。

*済生会……さいせいかい。現「社会福祉法人恩賜財団済生会」。明治44年5月30日、明治天皇の済生勅語によって創立。

 1915(大正4)年 

陸軍省から徴兵検査用の色盲検査表を作ることを 依頼される(岡島 1997a: 329)。

著書『トラホーム診断学講義』。

 1916(大正5)年 

4月、研究報告「色盲の名称について 付新案仮性同色表」。(東京大学で開催の「日本眼科学会学術集会」第20回総集会にて。のち、『日本眼科学会雑誌』第20巻に論文として掲載 )。

4月、医学博士号取得*。

*かねて提出の大学院卒業論文「特発性夜盲症或は結膜乾燥症の原因について」に対して。留守中に『東京日々新聞』の取材を受け、子が親の顔を知らないと書かれたほど仕事にうちこむ (石原 1941: 136)。

色神検査表(「大正5年式色神検査表」)(陸軍衛生材料廠蔵所)を完成。ひらがなと曲線を用いるもの。 

石原式『日本色盲表』を完成。1941(昭和16)年の12版まで発行。

 『トラホーム図説』第2版。

 1917(大正6)年

色盲検査表の欧文版、つまり『欧文色盲検査表』の原形ができる。

出版を丸善にもちかけたが、外国向け出版はこれまで失敗に終わってきたのが通例だとの理由で引き受けられず。半田屋にたのんで翌年に印刷(石原 1941: 212; 須田 1984: 94)。

 1918(大正7)年 

『学校用色盲検査表』を作成(出版は1921)。

石原式『欧文色盲検査表』(万国色盲検査表)を600冊印刷、うち90冊を世界各国の大学や眼科医に寄贈*。

*半田屋書店に頼み、印刷部数の1割を無償で著者に提供する条件だった。600冊のうちの60冊は従って石原に提供され、さらに30部は石原が買い取って、合計90部を寄贈分にまわした(石原 1941: 212)。

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 1920年代(大正9〜昭和4)

 1920(大正9)年 41歳

東京第二衛戍病院長陸軍軍医学校教官を兼務。千駄ヶ谷に借家。

 1921(大正10)年 42歳 

3月、『学校用色盲検査表』第1版を出版。6月、同第2版。9月、同第3版。

11月、陸軍一等軍医正に進級。軍医学校に復帰。

著書『新訂再版トラホーム図説』

  1922(大正11)年 43歳 

6月、東京帝国大学医学部に就任。 河本重次郎の後任で第2代主任教授。

図書室、研究室、暗室を拡張するなど、施設充実に奔走。みずから図書を収集したと言われる。半年間はまるで戦争のようだったとの回想も(須田 1984: 113-5)。

 1923(大正12)年  

5月、『学校用色盲検査表』第4版。

9月、関東大震災。

「本郷の火事が眼科学教室にも近づいてきたので建設中の鉄筋コンクリートの外郭だけが出来上がった現在の南研究棟に図書や顕微鏡を運んで避難させた。地震の大混乱の中を軍隊生活で鍛えられた精神力と行動力をもってフルに働いた」(『東大病院だより』No.53)。

 1924(大正13)年 

7月、『学校用色盲検査表』第5版。

  1925(大正14)年 

6月、著書『小眼科学』第1版発行*。

*利益は医局にプールして財政健全化に寄与する。

 1926(大正15=昭和元)年 47歳 

1月、『学校用色盲検査表』第6版。

3月、陸軍軍医監となる。

7月、予備役。

 1927(昭和2)年 

7月、『学校用色盲検査表』第7版

 1929(昭和4)年 50歳 

第13回国際眼科学会(アムステルダム 大会)で、色神の国際的検査法の統一に関し、 スチルリング表、ナーゲルのアノマロスコープとともに、石原式色盲検査表が採択される。

6月、『学校用色盲検査表』新訂第8版

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 1930年代(昭和6〜昭和15)

 1931(昭和6)年 

4月、石原をかこむ東大眼科同窓会第1回会合が開かれる。出席者43人。「一新会」の名称案が出される。

6月、『学校用色盲検査表』新訂第9版

 1932(昭和7)年 

8月、『学校用色盲検査表』第10版

石原式『新式色盲検査表』

The Series of Plates Designed Test for Colour Blindness.を発行。

著書『眼底図譜』

 1933(昭和8)年 

第14回国際眼科学会(マドリード大会)。石原式色盲検査表がスチルリング表とならんで用いられるべきことが決議される。

教授在職10周年。記念に同窓生から肖像画、逸話文集『石原先生』、南伊豆の川津の別荘(「一新荘」)が贈られる。

 1934(昭和9)年 

6月、『学校用色盲検査表』第11版 著書『眼科学編』(現代医学大辞典第6巻)

 1935(昭和10)年 

8月、『学校用色盲検査表』第12版 著書『眼病図譜』上下巻*

*東大眼科教室に蔵するものを編集

 1936(昭和11)年 

石原式欧文色盲検査表第7版。それまで16表だったがこれで32表となる。

 1937(昭和12)年 

3月、『学校用色盲検査表』第13版

3月31日、東京帝国大学医学部長に。1940(昭和15)年3月31日まで。

邦文国際色盲検査表

  1939(昭和14)年 60歳 

『国際色盲検査表』(第11版) 

3月、『学校用色盲検査表』第14版

著書『結膜炎の診断と治療』 著書『内科的疾患に見らるる眼症状と治療』

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 1940年代(昭和15〜昭和24)

 1940(昭和15)年

4月、東大を定年退職。

7月、東大名誉教授に。

 1941(昭和16)年 62歳 

1月、朝日賞(文化賞部門)受賞(他に柳田国男、山田耕筰ら)。

2月、東京逓信病院長に就任。

5月、学士院賞を贈られる(他に北大の中谷宇吉郎ら)。

『石原式曲線色盲検査表』

著書『学窓余談』

 1942(昭和17)年

著書『日本人の眼』

 1943(昭和18)年

著書『トラコーマの病原並にトラコーマと包括体性結膜炎の関係』

前橋医学専門学校*の校長に(逓信病院長と兼任)。

*同校は戦時中の医師大量養成の要請に応えるべく昭和18年から昭和20年にかけて陸続として新設された 医学専門学校のひとつ。のちの前橋医科大学、さらにのち群馬大学医学部。

 1946(昭和21)年

3月、前橋医学専門学校長を辞任。

4月、南伊豆の川津の別荘「一新荘」に移り住む。

6月、「川津眼科医院」を開設。

9月、公職追放

「開業医は患者の苦痛を和らげ、病気を治すことだけに全力を注げばよい。石原は今、そのことに無情の喜びを感じていた。名声を慕ってやってくる患者はしだいに増え、門前市をなして、近所の家が宿屋代わりになるありさま。それでも石原は夕方6時、7時頃まで、時には昼食もとらずに、ていねいに診療を続けるのだった。/河津町谷津地区には、本屋がなかった。石原は村の若者に本を読ませようと思い、もとの村役場を買い取って、私設図書館をつくった。費用は東京の自宅を売って充てた。また共同風呂に温泉をひき、村道を直した」(岡島 1997a: 330)。

*石原表は、印刷所も焼け、原版も失われ、物資不足で印刷困難に。以後、困難が続く(岡島 1997b: 333)。

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 1950年代(昭和25〜昭和34)

 1951(昭和26)年

妻=琴、脳溢血で倒れる。

「川津文化の家」を作る。

 1952(昭和27)年

公職追放解除される。

 1955(昭和30)年

5月、「色盲研究会」会合が始まる。

 1956(昭和31)年

1月、妻=琴死去。

11月、紫綬褒章を受章。

 1957(昭和32)年

3月、学士院会員に。

以後、例会出席のため毎月上京、これを機に印刷所をまわるなどして石原表の改善に努める。

 1959(昭和34)年 80歳 

財団法人の設立準備を始める。恩給と年金を除いた全財産を寄付。

色盲検査表(第14版)。「過去最高と いう評価」を得る(岡島 1997b: 333)。

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 1960年代(昭和35〜没〜昭和44)

 1960(昭和35)年 

『あたらしい文字』

 1961(昭和36)年 

2月、財団法人「一新会」*設立。

*眼科学と国字改良に関する研究をすすめ、学術文化の向上発展に寄与すること、またはそれを助成することを目的とする。色盲検査表の 品質維持や改善に関する研究は、ここが受け継ぐこととなった。

 1962(昭和37)年

石原表が大蔵省印刷局病院の協力でコンサイス版の印刷。

 1963(昭和38)年 

1月3日、没。名誉町民として町葬となる。

 1966(昭和41)年

一新会が一新荘を金原書店に売却。代金1100万円を基本財産に組み入れ。新宿に事務所を置く。

 1969(昭和44)年 

石原表の印刷・改善に携わってきた四女の美禰子、没。石原表の印刷は再び困難に。

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 1970年代〜(昭和54〜)

  1979(昭和54)年

東大眼科が色覚検査表の改善に着手。東大新入学生を対象とした試験をおこなう。石原表が安定した出版軌道に。

 1984(昭和59)年

須田經宇、『石原忍の生涯』、発行される。

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文献

2007年06月01日版。
2015年1月15日、序文に一文加筆。

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