夕闇迫れば

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経験としての色

 カラーユニバーサルデザインの推奨はもとより望ましいが、しかしそれは「信号としての色」の話。それとは別に、そうではない「経験としての色」への尊重を、私たちは取り戻すべきではないだろうか。言い直すとそれだけ色が「信号化」した社会に私たちは生きている。

拙ウェブサイト古エッセイより

 「「この料理、おいしいね」と言い合う。他人の感じるおいしさを、私が感じるわけではありません。が、そのとき私は、その人のおいしさを追体験しています。「それではいかん、おいしさの客観的な根拠を確認しなければ、いまの会話は成り立っていると言えない」などという人はいないでしょう。
 あなたの夕焼けと私の夕焼けは、ちがう色かもしれません。いや、厳密に言えば、ちがう色であるにちがいないのです。事実として。でも、それを確かめる方法は、ありません。誰と誰であっても、身体感覚を共有する(他者の色覚を経験する)ことは不可能だからです。
 それでも私たちは対話できています。これは人間に与えられた、とてもすばらしい能力にちがいないと、私は思うのです」。

拙著(2016)

 「「このみそ汁、うまい」「夕焼けがきれいだぁ」と言われても、人間が身体によって分け隔てられた存在である限り、もともと共有できない性質のものだ。まして「おふくろの味」とか「赤とんぼの歌」となれば、各自の経験の歴史、つまり生活史に応じて内容や印象が異なるだろう。いや、となれば「二人とも永遠にあの夕焼けの色は見ることができないような気がする」(小浜 1990:161)。・・・問いを変えるべきなのだ。心の底からすべてわかりあうといったことが原理的に不可能なのだとしたら、話をするとか話を聞くとは、何をどうすることなのだろうか、と」。
 (引用は、小浜清志の小説「赤いカラス」、『文学界』44(12)より)

 J=デューイ、『経験としての芸術』(1934)より
「[知覚される]性質というものは、性質である以上、分類には向いておりません。・・・私たちは、実際のところ、まず赤というものについて語り、それからバラの赤とか、夕焼けの赤とかと、言ったりします。けれども、こういう言葉づかいというのは、どちらの方向を向いたらよいか示すといった、実用的なものでしょう。まったく同じ赤い色の夕焼けというものは二つとして実在しません。まぁ、ある夕焼けが他の夕焼けを細部に至るまでそっくり反復するなどということがあるなら別ですが、同じ赤色の夕焼けなんてないわけです。というのも、赤とは「その」経験の素材となった赤、なのですから。・・・画家は絵の中にまったく同じ二つの赤が存在しないことを知っております」。  
 (ここでの訳文は原文見て独自に作りました)。

2018年12月10日 facebookに書き込み
 

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