夕闇迫れば

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「仕方ないね」が埋め込まれている

 TBS「報道特集」より、「色覚異常〜検査の是非は?」(2017/12/9 放送)


 番組ページによれば、「色覚異常〜検査の是非は? ・・・[略]・・・自分が色覚異常であることを知らないまま育ち、採用時の検査で発覚して就職できないケースが相次いでいる。翻弄される当事者たちの思いに迫る」。

 この文言には、少なくとも次の二つの問題提起が含まれています。すなわち、

 1)検査結果によって就業が断られるという問題と、

 2)自分の色覚特性および就業制限が知らされていなかったという問題と、

 です。

 「色覚検査の是非」という話題が、2)の問題としてのみ処理されるなら、1)は不問になります。

 そうして、番組には「どうして前もって知らせてもらえなかったのだ」と問う当事者は登場しますが、「どうして不合格なのか」と問う当事者は登場しません。

 そのことで「制限されること自体については当事者も納得しているのだ」と暗示されています。視聴者は、その暗黙の論理を読み解いて「制限されても仕方ないことなのだな」と受け止めるかもしれません。「それなら事前に知らせておくべきだろう」という推論も働くでしょう。

 「検査の是非」についての答えは、この構図によって前もって準備されているのも同然です。

 (私はこの構図を問題にしているのであって、登場した当事者を責めているのではありません。むしろ、私だって同じ境遇なら同じ意見を述べたかもしれないと想像できます)。


 

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 就業制限の問題について、当事者には、疑問を持ったり抗議したりしづらい状況がある(あった)ことを、理解しておくべきでしょう。

 すなわち、「危険」とセットで語られるというのが19世紀後半以降の色覚史の大きな特徴です。加えて、20世紀になると「適性」の論理も発生しました。

 制限について疑問を持つ当事者には、社会を危険にさらそうとしている、無自覚で自制心に欠けている、といったレッテルが生じがちだったのです。

 おまえには重大な過失や失敗をおかすおそれがある−−今だって、そう言われたら、たいていの当事者は黙っているしかないでしょう。それで言い出す人がいないことをもって「当事者も制限があることは理解している」と見なすのは「沈黙の強制と政治利用」というべきものです(拙著では「声の政治的で恣意的な創出と充当」と呼んでおります)。

 かつての検査体制について当事者から批判の声があった、とよく指摘されます。それは事実ですが、しかし注意も必要でしょう。強い抗議の声がなかなかあげられなかったというのが色覚史の特徴なのです。

 進路制限についてはもっとです。かつて、大学入試や就職に大きな制限があった時代、その門前払いについての根拠は大半あやふやなものでしたが、管見の限り、それで訴訟になったことはありません。法的な意味では「差別批判がなされたことがない」と言ってもよいというのが、歴史的事実であり現在的事実なのではないでしょうか。


 

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 今日、制限の多くはなくなりました。しかし、解決済みの問題ではない、と付け加えるべきでしょう。

 その指摘がなければ、ほとんど制限がなくなったというのだから、残されている制限にはやはり本当にやむをえない理由があるにちがいない、という臆測が発生します。これを「臆測」にとどめてはなりません。本当にやむをえない事情があるのかどうかについては「きちんとした検証と説明」が必要でしょう。

 もちろん、「色を見分ける仕事がありますから」といった程度の説明を「説明」と見なすわけにはゆきません。雑駁な説明を容認していたら、「史上かつてないカラフル社会」としての現在、色覚検査の結果を「正当な理由」として、色覚少数者に対する制限が復活したり増えたりすることになりかねないからです。

 そしてこれは「当人が納得しているかどうか」という問題ではないでしょう。当人がどう言おうと言うまいと、身体的特性(個人の努力ではいかんともしがたい事情)を理由として制限をしようというのなら、それについては制限しようとする側が説明責任を負うという「社会のしくみ」が必要になります。人権にかかわる問題だからです。

 要約すれば、このような意味の挙証責任のはぐらかしという問題がここに伏在している、ということになります。

 就職が制限されている問題であるのに、法的観点が感じられない点に、その問題は集約されているでしょう。前もって知らせておけばOKなどという問題ではないはずです。

 

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 制限が含むかもしれない不利益は不問にし、ただ早期告知(色覚特性と制限の事実を早く告知しておく)をもって「当事者の利益」と見なす。
 そうして、それと色覚検査批判(色覚検査廃止論)とを対立させ、古い世代の当事者による色覚検査批判が現在の若い当事者に不利益をもたらした真犯人だと責任転嫁する。
 もし意図的なら論理の詐術というべきものだと、私には思われます。


 

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付録

 facebook 上での伊賀公一さんとのやりとり

 伊賀公一
 今回の番組は「『学校』色覚検査の是非を問う」というタイトルでした(『』は伊賀が追加)。私は「『学校』色覚検査の『本質』を問う」という番組にして欲しかったと思います。
 番組で出てくる就職制限というのは「色覚バリア」だと思うんですよ。
 事業者は採用時の欠格事項として色覚バリアを設けるならば、合理的な理由の説明義務があると思いますね。
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 徳川
 話題は「学校」での検査でしたね。
 「本質」追究がなされるべきだったというのもその通りかと。
 「そもそも」なんのための検査なのか。当人支援のためか、教育上の配慮のためか、進路指導のためか。
 配慮のためとしても学校ユニバーサルデザインは検査しないとできないのか。
 進路指導のためだとしたらそんな検査が学校でできるのか、してよいのか。とくに初等教育で。進路相談って「やめときなさい」とバリアを復唱することなのか、それについて学校や先生は責任を負えるのか・・・

2017年12月19日 facebook
 

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