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言葉の問題、言葉の問題?

言葉の問題

 本サイト(および拙著『色覚差別と語りづらさの社会学』)では、主に「色覚少数者」「色弱」「色弱者」を用いています。
 「色盲」「色覚異常」「色覚障害」などは、歴史的・資料的な用法ないしは引用に限りたいと考えています。
 もっとも、「少数」とか「弱」にも問題はあるでしょう。模索的な用法であって、確定的なものではありません。
 「色覚特性」は、あらゆる人が持つ特性(個体差、個人内の変化)のことを指したいと思います。

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言葉の問題?

 ・・・とは言え、本サイト(本書)では、「その人々を指して言う言葉」が差別語かどうか、を問題にしているわけではありません。
 むしろ、それはどちらかといえば付随的な問題だろうと思います。
 なぜなら、色覚少数者がかかえる「生きづらさ」「語りづらさ」は、この社会で当然視されている技術や習慣、そのことからなされる推論、正当化される論理、などに大きく起因するからです。
 呼称をどう変えたにせよ、それがただ言い換えマニュアルにとどまり、上のような意味での社会に変化が起こらないなら、当事者の生きづらさ・語りづらさ、そして実際に当事者に対して生じるかもしれない排除効果などに、大した変化は生じない、と考えられるからです。
 もちろん、言葉は大きな問題です。それは、言葉がそのような社会構造を背後に引きつれている場合が往々にしてあるからです。
 しかし、まさにその次第、問題を言葉の問題に還元してはならない、とさえ、考えています。

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「差別」と社会

 そんな次第で、本サイトや本書に言う「差別」も、「非当事者」が「当事者」に対してするもの、という意味で用いてはいません。そのような非当事者vs当事者という枠組自体を、考え直したいと思っています。
 「差別」といえば、多くの場合、あからさまな「軽蔑」とか、「侮辱的なものの言い方」が、思い浮かべられるかもしれません。あるいは、根拠のない「偏見」を持つとか、言葉にはしないでも「蔑視」するとか。
 本サイトのいう「差別」はそれを指しません。「非当事者」の心ない態度とか無自覚なものの言いようなどを論難しよう、という趣旨ではないのです。

 そうではなく、この社会の技術や習慣が「自明視」されていれば、「あなたは正常な(現状に適合的な)色覚を持っているか」と、人間の側が「問い質されて」しまうでしょう。その対象になっているという点で、「非当事者」(一般色覚者)も当事者なのではないでしょうか。本サイトが問題にしているのは、その「問い質し」の論理構造なのです。

 自分自身について自分で線引きをしてしまう。−−「当事者」の自己自身の内部にも、そういった「権力作用」があります。当事者だからといって、「おのずと」問題のありかに気づき、異議を申し立てる、とは限らないのです。少なくとも、私は、自分自身の色覚にまつわる社会問題について、長いこと、無頓着でした。

 『色覚差別と語りづらさの社会学』で、「自分を掘る」という言葉は、そのようなことに気づくために、用いています。あるいは、「経験の記述」やその「推敲」も、自らの経験が自明のことではないことに気づくための言葉です。

 ユニバーサルデザインの基礎哲学は、この問い質しの方向を変える可能性を有している点で、読み解いてみるに値すると、私は考えています。
 現状の技術や習慣に合わない人が立ち去らなければならないのではなく、そもそも不ぞろいである人間の側に合わせた社会を作るにはどうしたらよいか。根本的には、「障害学」の問題提起とも通底する、そういう課題が含まれている、と思われるからです。

□ 2016年3月8日

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