日本は、諸国の例にならいつつもきわめて端的なかたちで色覚検査を制度化し、端緒的には大正期から、本格的には戦後直後から、学校教育とそれとを結合させ、進学や進路を制限する指導をおこなってきたという歴史を持つ。途中から、教育上の配慮のためであるとの趣旨に変更されたが、実際上、そのような配慮が系統的になされた痕跡は見当たりにくい。むしろ、色覚検査の歴史の大部分では、検査結果が進学や就職における制限の基礎資料になってきた。
ようやく1990年代になって、そのような進路制限は差別であるとの批判がなされるようになり、制限の多くが撤廃され、その根拠となっていた色覚検査も2000年代初頭には学校での検査の必須事項から外れることとなった。
しかし、その色覚差別批判は、従来の検査が該当者を非常に広く篩い分けていたことから、また、健常ではないが病気でも障害でもないという曖昧な状況から、色覚特性は「大した問題ではない」「障害ではない」等と強調しなければならなかった。その訴えによって理不尽な制限の撤廃を達成しえた点には、歴史的意義を認めなければならない。しかし他方、それがともすれば色覚特性の否認として処理され、本来それにとどまるはずのない色覚検査撤廃論に議論が集中してしまったため、あるいは諸種の制限の撤廃も理解の高まりによってというよりも行政的な指導によってなされたために、社会環境中の配色の改善、多様性の尊重、当事者本意の支援や共同といった方向性が積極的に打ち出されたわけではなかったという課題を今日に残した。
これに対して本書は、これを、なんでもない色覚特性に付けられた問題的な名前の問題ではなく、物質文化と社会的習慣(実践)の問題として捉え直したうえで、情報伝達の原則とユニバーサルデザイン、当事者性、経験について語る声と耳の関係などについて考察し、今日的にも存続している「危険」のレトリック、「適性」のレトリックの歴史的起源とその「ほころび」にも論及して、その文化と習慣を見直そうとしたものである。
さらに、昨今、学校における色覚検査が必須ではなくなってから10年が経過し、その世代が進学や就職にさしかかってきている。これを受け、当事者たちが自分の特性を把握することができないまま社会に投げ出されるのは問題だという指摘がなされてきており、やはり検査を再開するべきであるという提言も出されてきている。しかし、そのような主張はしばしば、かつての検査や進路指導がなにゆえに差別だと批判されたのか、その教訓は何だったのか、検討を踏まえていない。
今日、カラーユニバーサルデザインやカラーバリアフリーの尽力が積み重ねられており、多様性の尊重にむけて非常に積極的な意義を持ちうる可能性が高まっているが、しかし他方、それに関する報道などにおいては、概念的な混乱から、配色だけに注意が向けられ、「色分けによるメッセージ伝達」という既存の習慣がいっそう固定化されかねない危険、また、改善の結果だけを見て「色が見分けられない人がいる」といった乱暴な臆測をかえって広めてしまう危険もまた生じている。
当事者が想像もできない異世界の住人として「他者化」され、その裏返しで、読み手や聞き手が問題外に置かれて「疎外」されるという状況も発生している。
これに対して本書は、検査の有無ではなくてその趣旨と方法、特定部類の人のための工夫ではなくて情報伝達の一般原則の問題、当事者がいかに語るべきかだけではなく公衆がいかにそれを聞くかという生活文化の問題について触れている。
なお、これは日本国内でも何百万という人々の人生や生活を大きく左右した問題だったにもかかわらず、少なくとも2015年6月の入稿時点において、これを社会科学の観点から分析・批評した日本語の専門書を私は見いだし得ていない。