私は、「色弱」であることによって、工学や医学や薬学や美術の道には進まない方がよいと、アドバイスされなければなりませんでした。
ところで、最新の工場などでは、ある機械から別の機械まで、人間がだいたい何秒かかって何歩で移動することができるのか、そんな「人間工学的」設計までなされていると、話に聞いたことがあります。真偽のほどは知りませんが、タトエ話として考えてみましょう。これが本当なら、その「何秒」「何歩」に合致しない人は、その工場では働けないことになります。それまでは何も支障などなかった人が、ここでは「支障あり」に、なってしまうのです。
もちろん、技術革新によって、かつては働けなかった人が働けるようになった例もあるでしょう。たとえばパソコンが、外出の難しい方の在宅就労を、可能にするかもしれません。実現すれば、それはすばらしいことでしょう。
だから、技術がそれじたいイカンというわけではありません。その使い方・工夫の仕方の問題です。
道路の交通標識は、これでもかとばかりの大きな字で印刷されています。道路に出ている青看板のことを考えてみて下さい。その文字を小さくして、「これが見えない人は視力障害者であり、従って車を運転することはできない」とされたら、おそらく囂々たる非難がわきおこることでしょう。しかし、そうではなく、できるだけ多くの人に、なんの支障もなく読みとれるように、工夫がなされています。いわば、人間の側に合わせて技術を使うということが、ごくあたりまえにおこなわれているわけです。
しかし、これが「文字の大きさ」ではなく「色使い」になるととたんに、いまある技術に合致しない人間の方がおかしいのだ、ということになってしまっている。この理屈で言えば、色覚検査表のような対象をどんどん作れば、それだけたくさんの人が色覚異常として社会生活から排除されることになります。逆に考え、技術の方を工夫すれば、 「支障あり」の人はそれだけ減るはずです。
段差やモノの配置に少し注意さえすれば、車椅子で生活できる人がたくさんいます。これと同様に、黒板に赤チョークで字を書 いたりしなければ、とても多くの人が「色覚異常」でなくなります。逆に、たとえば近眼の人を「障害者」にするのは簡単です。印刷物の文字を小さくして、「これが読めないのは障害だ」と言えばいい。
つまり、しょうがい(1)とは、 身体の特定の状態のことだけを指すのではなく、その状態のなにがどのようにしていかなるしょうがいとなるかは、社会条件(技術水準や産業構造や医療水準や福祉制度や)との関数関係で決定されることになるわけです。
社会制度や技術や設備は人間をふるいわける作用をしてしまう。とりわけ、平均的な標準人、いわば「完全氏」(ミスター=ノーマル) をモデルとして作られた技術は、 それに合致しない人間を排除するという効果を発揮する。「障害」の多くは、そのようにして社会的に作られたもの(2)である。
私はなにも、色覚特性じしんの存在を否認しようとしているのではありませんし、色覚特性の「原因」を社会に求めようとしているのでもありません。「色盲」や「色弱」と呼ばれてきた特性は、近視や老眼と同様、 社会状態にかかわりなく、自然に実在するのでしょう。しかし、それが「支障あり」であるかどうか、そしていかなる支障なのかは、社会の条件によって決定されることが多い。その意味で社会づくりのコンセプトが問題だ、と言っているのです。
たとえば、ユニバーサル=デザイン(3)といった考え方は、できるだけ広い分野で取り入れられてしかるべきものでしょう。色遣いもその一つだ、ということだと思います。
(2) 社会的に作られる「障害」
もう少し正確に言うと、次の三つを区別するべきだ、ということになるでしょう。
- 身体そのものの病とか損傷とか、それに起因する機能の障り。
- それでなにができるかできないか。
- そのことによってどんな社会的不利益が生じるか。
1の、身体の状態そのもの(その障りを
インペアメントという)は、おそらく普遍的だと考えられます。つまり、色覚少数者にとっての色の見え方は平安時代と現代で大差ないと考えられる。
2の、なにができるかできないか、は、社会条件によって大きく左右されます。つまり、パソコンの画面が見づらいといったことは平安時代には起こり得ないわけです。
3の、社会的不利益の大きさは、もっと違ってくるでしょう。つまり、それに対する工夫がある社会とない社会では、同じパソコン社会でも不利益の有無は大きく違うことになるでしょう。
ここで問題にしているのは2や3です。つまり、
社会現象としての障害。
注意したいことが二つあります。
一つには、「社会的につくられた障害」という場合、1(つまり身体の状態そのもの)の原因を作り出したのが社会だ、と述べているわけではない、ということです。つまり、色弱という身体の状態を社会が作り出したのではない。「障害」の先天的か後天的かという分類でもないわけです。むしろ、身体レベルの障りの原因は、どちらでもよい。どちらであっても、それと2や3との区別をすることはできます。
二つ目には、従って、上述の三つを区別すべきだと述べたからといって、1(身体の状態そのもの)のレベルの差異の存在を否認しているのではない、ということです。そうではなくて、
身体の差異の、なにが、どのようにして、いかなる「障害」 になるかは、必ずしも身体の状態そのものというレベルでは決定されない、と考えるわけです。
このような問題提起が重要なのは、障害を自然存在とばかり捉えて、1(つまり身体の状態)のことだから、3(つまり社会)のレベルで生じる不利益も「やむをえない」としてしまうような態度や、社会的に生じる不利益の問題を指摘していることをもって身体の状態そのもののレベルの障りを否認しているかのようにうけとめる態度、いずれにしても社会的条件の吟味といった方向にすすまない態度について、反省させてくれるから、です。 つまり、このような議論が投げかけているのは、なにが本当の障害かという認識の問題ではなく、社会的な実践と責任の問題なのです。
なお、こうした視座については、一般に
構築主義と呼ばれている社会学理論や、とりわけ
障害学に関する次の書物に学びました。マイケル=オリバー 、[1990]2006、『障害の政治』、明石書店。
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