『朝日新聞』2017年9月6日付け記事より
【引用】
遺伝の「優性」「劣性」使うのやめます 学会が用語改訂
遺伝の法則の「優性」「劣性」は使いません――。誤解や偏見につながりかねなかったり、分かりにくかったりする用語を、日本遺伝学会が改訂した。用語集としてまとめ、今月中旬、一般向けに発売する。
メンデルの遺伝学の訳語として使われてきた「優性」「劣性」は、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎないが、優れている、劣っているという語感があり、誤解されやすい。「劣性遺伝病」と診断された人はマイナスイメージを抱き、不安になりがちだ。日本人類遺伝学会とも協議して見直しを進め、「優性」は「顕性」、「劣性」は「潜性」と言い換える。
他にも、「バリエーション」の訳語の一つだった「変異」は「多様性」に。遺伝情報の多様性が一人一人違う特徴となるという基本的な考え方が伝わるようにする。色の見え方は人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」は「色覚多様性」とした。
学会長の小林武彦東京大教授は「改訂した用語の普及に努める。教科書の用語も変えてほしいと文部科学省に要望書も出す予定だ」と話す。用語集「遺伝単」(エヌ・ティー・エス)は税抜き2800円。(編集委員・瀬川茂子)
−−遺伝の「優性」「劣性」を「顕性」「潜性」と改訂、「色覚異常」も「色覚多様性」に。
「内実のない言い換えマニュアル」と受け止めてはならないと思います。実践を方向づける哲学なり思想を変えることにつながりうるからです。
学術用語が一般社会に与える影響力の大きさは無視できません。この場合、価値評価を含んだ日常語「優・劣」「異常」のニュアンスを学術用語が引き継いでしまっていて、「世間の不適切な過剰反応」を招きやすくなっていた、それとの間に相乗効果をもたらしていた、と、十分に想像できます。
色覚検査が、もし、そんな「世間の不適切な過剰反応」を誘発しながら「当人の自覚のために」という論理をふりかざすなら、それはいかにも理不尽。
当人の自覚的な進路選択を促すよりも、史上かつてないほどのカラフル社会の中、検査結果を正当な理由とした就業拒否を多発させてしまう危険のほうが大きいのではないか、と懸念されてなりません。
そんな制限にあう危険を当人が避けるために検査が必要なのだ、といった論理は、もはや典型的な「ループ」現象と呼ぶべきものではないでしょうか。
用語の改訂は、このループをいったん切ってみるばかりではなく、あらたな思考に道を開く可能性を持っている、と、期待することができます。
同じ色覚検査でも、その「地」に、異常の検出、という論理を置くか、多様性の尊重、という論理を置くか、で、その「意味」が異ってくることでしょう。
「いかなる配慮や支援があるべきか」「どんな社会的習慣を改めるべきなのか」という思考回路が開かれることを願ってやみません。
検査がどんな社会的結果を生むか、検査してどうするのか、を問わないまま、あとは当人の自覚まかせという検査など、あってはならないと思うからです。
「障害」と書くか「障がい」か、なんて議論はどうでもよい、それよりどんな配慮ができるか考えてほしい−−
そんなツイートが話題になっているとか。
一理も二理もある話だと思います。
というのも、「当の特性や人を何と呼ぶか」という議論は、一般には、しばしば「何と呼んでおけば差別だと論難されなくて済むか」という言い換えマニュアルと化していて、つまり、当事者を守るよりも、その言葉を使おうとする非当事者を守るための議論になってしまっているからです。
もっと言えば、その含意として、「差別とは非当事者が当事者に対してするもの」、そして「それは言葉の問題だ」、いやもっと言えば、「当事者とはそのように言葉のささいなニュアンスに傷つけられやすい存在だ」というように、問題が狭く定義=限定されてしまっているからです。
ここからは、社会の制度や習慣の問題、その全体としての構造が持つ差別性の問題が、すっぽり抜け落ちてしまっています。
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それをふまえて、やはり言葉の問題について考えるべきだと思います。
というのは、「言葉の言い換えマニュアル化」と区別して、当事者が自分たちを何と呼ぼうか考えてきたこと(「カテゴリーの自己執行」)の中には、ただの言い換えではない思考が含まれているからです。
色覚問題に限るなら、「色盲・色弱」「色覚異常」「色覚障害」「ダルトニアン」「一型2色覚」「P型色覚」「色弱」……は、同じ指示対象を持っている場合でも、意味が異なります。少なくとも、その社会的通用のなかでは。
出自や語源など歴史がちがうということもあるし、いまどんな言葉の体系の中で使われるかという現在的な文化や文脈のちがいもあります。それで、どんな含意や論理を伴っているかが、ちがってくる。
当事者としては、どんな言葉を選ぶかによって、何を説明し、どう訴えることができるか、ちがってきます。
何が得られ、何を失うかも、異なってきます。
他の分野でわかりやすい例(?)を出すなら、たとえば「発達障害」と「発達凸凹」と「発達多様性」について、考えてみてください。単に言い換えではなく、意味内容の吟味を含んでいることがわかります。
辞書的な意味の問題ではないし、当事者の「感じ方」の問題でもありません。そうではなく、制度や世間にどんな意味で「通用」し、そこにどんな「理解」が成立し、それがどんな「結果」や「効果」をもたらすか。ひいては、どんな「配慮」や「改善」につながるのか。そういう「実践」の問題を、それは提起しているのです。
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だから、当事者だって、言葉の使用法について、判断が分かれる場合があります。10年前と今日とでは異なる判断もありえるでしょう。しかし、それについて考えたり話し合ったりすると、「差別」のような重くて強い言葉も飛び交いがちになるから、とてもしんどい思いをすることがあります。傷ついた経験がある人だって多いだろうと私は想像しています。
が、その次第、その吟味のプロセス自体が、内実にかかわっていて、重要なのではないでしょうか。
当事者における言葉の吟味は、まさに「苦吟」として、その成果としての問題提起として、つまり労の産物として、もっと尊重されてしかるべきはずなのです。
しかし、それが世間に出ていくと、えてして、上っ面だけの「言い換えマニュアル」になってしまう。
「で、結局、どう呼んでほしいの」「言葉狩りなんじゃないの」といった議論に陥る。
そんな議論は「ただの語感の問題としてしか受け止めていません」に聞こえてしまう。
その徒労感。「しょーもない」と言いたくもなる。その温度差に起因する落胆を、上のツイートは、端的に言い当てているように思います。
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もちろん、言葉にそうそう容易に「普遍的な正解」があるとは限らないでしょう。「代替案」がすぐ社会に広まるわけでもありません。
しかし、言葉についての疑問や問題提起が、問題の内実についての検討につながっていくなら、それは前進だというべきでしょう。
私たちの「学習」とか「認識の深化」とか「自覚」の契機が、そこにあるのだから。
かくいう私も、もっと敏感にならなければいけない言葉がたくさんあるにちがいありません。
学術用語の改訂を含む言葉の使用法に関する問題提起がなされる時とは、本来、日常の無自覚な認識と習慣の内実を問い直す契機なのだと、心したいものです。