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「色覚検査のすすめ!」の問題点

 旧態依然。「色覚少数者は自覚して自制しておけ」の論理にしか見えない。

 2015年10月5日から日本眼科医会が「色覚啓発ポスター」として「色覚検査のすすめ!」を配信しはじめている(pdfをjpgに変換して掲示する)。

 非常に問題的なポスターだと私は思う。

 日本眼科医会発行 色覚検査のすすめ!

 

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 ポスターはうたう。

 「色覚に異常を持つ生徒の約半数は、検査を受けるまで自覚がありませんでした(日本眼科医会調査)」。

 「異常のタイプや程度により、一部の仕事に支障をきたすことがあります」。

 「進路を決める前に検査を受けて自分の色覚を知ることが大切です」。

 −−私には、旧態依然、「色覚異常者は自覚して自制しなさい」と言っているようにしか見えない。

 

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 ポスターには「色覚の異常の程度による業務への支障の目安」(困難が生じると予想される職業のリスト)が付されている。

 その根拠となった2012年の原著論文(中村 2012)は、確かにその「目安」を掲げてはいる。
 しかし、それは「目安」であって、「やや独断的なもの」とみずから断りを入れた、慎重なものであった。
 そのうえ、ひとくちに色覚異常といっても多様である。また、実際には「業務内容は千差万別」であって「さまざまな要素」が関連する。それゆえ、眼科医は「一人一人の状況に応じ」た「柔軟」な「カウンセリング」を心がけるべきことを結論部で説いてあった。

 つまり、かつての「差別」だとの批判をふまえ、しかし、やむをえないと思われるようなケースについてどうするのか考え、さらにそれでも慎重なカウンセリングの必要を説いているのである。

 ところが、ポスターには、こんなカウンセリングが受けられる、ユニバーサルデザインや合理的配慮を求める動きもひろがってきている、決して自分の思い込みで決めないように、といった肝心な(つまり、かつてと異なる今日の状況についての)情報は、何一つ盛られていない

 これでは、慎重な目安が断定的に響くだろうし、検査とは「自制」のためにするものという含意が避けられないであろう。

 「職業適性」の論理と内容についてはひとまず措くとして、原著論文の著者は、「可能な限り想像力をふくらませ、遠く将来を見通す」(中村 2014: 85頁)カウンセリングを説いていた人であるし、道路標識やプレゼンテーションにおけるカラーバリアフリーについて研究してきた人でもあることを、公平のために付け加えておこう。私が直接存じ上げているわけではないが、その書き物のそういった性質は積極的な意義も持ちうるものと感じていたのである。

 しかし、その研究の中から、この「目安」だけがピックアップされると、なにやら趣旨が異なってきているように思われる。−−「抜粋による断定化効果」、あるいは、「可能性に関する自制化効果」とでも、呼べるだろうか。

 

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 「色盲」という言葉も復活している。つまり、ポスターの大きな文字としては「色覚異常」や「二色型色覚」のようになっているのだが、小さな文字で「二色型色覚・・・(旧)赤色盲・緑色盲」のように、注記してある。

 新しい用語法では、保護者の年代(ないしその用語法を受け継いだ今の生徒たち)にわかりづらいと考えたのであろうか。

 しかし、上の世代に浸透していた状況に配慮し、「啓発」というなら、色盲という言葉は誤解が多いのでもう使用されていません、かつてのようにただ色覚異常という診断がついただけで修学や就職が拒まれるべきでもありません、教育現場や職場でも配慮の義務や努力が求められています、といったことを訴えるのが本筋ではないだろうか

 

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 同日配信されはじめた「会長メッセージ」も引用しておく。

 −−−−−以下引用−−−−−

 平成14年の学校保健法(現学校保健安全法)施行規則の一部改正で学校での色覚検査が必須項目から希望者に行う任意の検査となってしまいました。

 この文部科学省の省令改正が10年後、児童生徒に及ぼしている影響を知るために、平成22〜23年度の2年間にわたる全国調査を実施しました。その結果、自身の色覚異常を知らずに学校生活や進学・就職などで不利益を受けていた多くの児童生徒等の実態が明らかになり、日本眼科医会ではこれらの問題解決に向け、多くの方面に働きかけてまいりました。

 その結果、平成26年4月30日に文部科学省から出された学校保健安全法施行規則の一部改正に伴う通知のなかに、保護者への色覚の周知を図り、希望者に色覚検査を実施するとともに、教職員は正しい色覚の知識を持つことで、色覚異常の児童生徒等が不利益を受けないように留意することが提言されました。

 当会では将来を担う児童生徒等のために学校での色覚検査が適切に実施されること、さらに、「色のバリアフリー」が社会的に推進されることを願っております。

 −−−−−以上引用−−−−−

 上のポスターに、「正しい色覚の知識」とか「保護者への色覚の周知」とか各現場で「適切に実施されること」とか「色のバリアフリー」などを読み取ることができるだろうか?

 

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 「不利益」とは何なのか。社会の現状を放置しておけば不利益は増大する。それから身を守るのは確かに当事者の権利だ。しかし、「だから身を引いておくほうがよい」ばかりでは権利の侵害だろう。

 言っておけば、かつての色覚検査の最大の問題点は、「検査結果と予想される支障を言い渡しておしまい」だったことにある。

 「これこれの道は諦めておいたほうがいいですよ」以上の「カウンセリング」が受けられる準備は整ったのであろうか?
 就業先で「診断書」を求められておしまい、にならない方策はあるのだろうか?

 多様性が尊重され、互いに配慮をおこなう習慣が根付いた社会なら、確かに、身体に関する情報は、配慮の基礎として有用である。しかし、残念ながら、その前提が世の中に浸透しているとは言い難い。まずはその転換をはかるべきであろう。
 現在の社会状況では、検査が旧弊の再現になってしまうおそれを予想することができるはずだ。それを変えることが「啓発」ではないのだろうか。

 

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 当事者の自覚とか社会とのおりあいとかは、当事者の権利という下地があって初めて言いうることであろう。それがなければ「本人の自覚」は「自制のすすめ」にしかならない。

 日本は障害者の権利条約の批准国である。私の職場でも、「義務」として、合理的配慮が求められることになる。

 色覚異常はいわゆる「障害」には含まれない。しかし、障害者の権利の承認が訴えているのは、日常的な発想法の転換であるにちがいない。

 進路決定の前に検査で自覚し、あとは自分で気をつけておけ、と言わんばかりの論理が通用する社会で、障害者の権利が守られるとは、到底思えない。

 

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文献

■ 2015年11月4日作成・2016年1月追記
 (私自身のフェイスブックおよびブログと重複)。

 

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