夕闇迫れば

All cats in the dark

■ ホーム > 古テクスト  >  第1集  > でも? 

 【要旨】 それにしても自分の色覚特性を知る必要がある場合はあろう。検査は、しかし、「あぶり出して排除する」結果にしかならないことが多い。検査するなら、社会的条件の整備をこそ、目指すべきである。

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でも?

 前項のように述べると、「でも、できないことはやっぱりあるのでしょう?」といった疑問がかえってくることがあります。

 では、かりに、色覚少数者にはやはり生来的になにか弱点があるとしてみましょう。しかし、なんでもできる人って、いるんでしょうか。「あらゆる点で常にいつまでも100%の人」って。

 「色覚に弱点があると言ったって何でもできる」、と主張するつもりはありません。自分になにができて、なにができないかは、各自が冷静に把握するよう努めるべき場合もある、その意味で検査も必要な場合がある(1)と、思います。私だって、自分の特性によって他人に迷惑を及ぼしてしまうような可能性がもしも本当にあるとしたら、そんな仕事にはつきたくありません。しかし、だからといって、社会的条件の改善をしなくてよいことになるわけではないでしょう。そのなかにはむろん、無理解や誤解の除去も含まれます。

 私などが受けてきた色覚検査は、そのような社会改革のためのデータという意味も、教育上の配慮に活用するという意味も、本人の人生上の選択についてのサポートという意味も、ありませんでした。社会的条件を 固定的な前提とし、「だからあなたはこれができない」とだけ考え、あとは当事者の自覚まかせなのです。

 これは明白な排除ではないでしょうか。そして、この事態を是認していれば、人が「あらゆる点で常にいつまでも100%」でない限り、同じ事態が他の誰にでも起こりうる、ということではないでしょうか。

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ノーツ

 (1) 検査の必要性と、検査の問題性
 自分の特性を知る意味で検査も必要だと私は思っています。しかしながら、 私の受けた検査は、その必要性に応えるものではありませんでした。「だからお前には○○ができない」と通告する結果にしか、なっていなかったのです。
 私の体験で言えば、自分で進路を考えることができるほどの情報を、色覚検査は与えてくれませんでした。また、検査で「色弱」だとされても、励ましやケア(2)は一切ありませんでした。唯一の「アドバイス」は、「この道には進むな」という、そういうネガティブメッセージ「のみ」、「それだけ」なのです。私の志望を尋ねられたことすら、ありません。 あろうはずがないではありませんか、小学校の低学年でおこなわれる一斉検査だったのですから。
 健康診断での色覚検査が繰り返しおこなわれる学校現場でも、「黒板に赤チョーク」が改められたこともありませんでした。 いわゆる「教育上の配慮」すら、おこなわれてこなかったのです。
 つまり、「色弱」者をあぶりだして、なんらかの社会生活から「排除」すること、それ「だけ」のためになされてきたと言って、過言ではないのです。検査の作成者の意図はともかく、実態としては。 →本文へ

 (2) 検査とケア
 人体に関する検査は、当然ながら、ケアが必要な状態があるかないか、あるとしたらどんなケアであるかを探るために、おこなうものです。そのような理由なしに、(検査される人にそれを知らせずに)、人の体を勝手に調べたりしてはいけません。
 高柳泰世『つくられた障害「色盲」』(1996年、朝日新聞社)は、実施してもなんのケアも おこなわない色覚検査は重大な「医療倫理」問題ではないかと、指摘しています。 元に戻る

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この項、おわり  前頁へ   次頁へ