夕闇迫れば

All cats in the dark

■ ホーム > 古テクスト  >  第2集  > 私は私の場合を 

 【要旨】 私は「私の場合を知らない」。「検査がなくなるのは当事者が自分の特性を把握できないから不利益」という主張はこの文脈に照らせば妥当性を欠く。自己の特性が知らされていなかったのだから。

前へ 次へ

私は「私の場合」を知らない

 ふと気づきました。私は「私の場合」を知らないのです。ある意味では、これが一番の問題だとさえ、言えるでしょう。

 私は、小学校の色覚検査で(1970年代のことです)「赤緑色弱」(せきりょくしきじゃく)と告げられました。が、この情報は、少なくとも私の場合、何の役にも立たないばかりか、自分の状態を把握することにもなっていませんでした。

 1 「私の場合」の不問

 色弱にも個人差があることを、後に知りましたが、しかし、私には、自分の色弱がどんなものであるのか、わかりませんでした。

 むろん、検査の結果として測定された種類や度合いは告知されましたが、しかし、それによって私に何が見えて何が見えていないのか、私にはわからないのです。私はたとえば大都市圏の地下鉄に見られるカラーの案内図に困ることはありませんが、困ると訴える方もいらっしゃいます。平野の緑に赤の都市という「カラーの地図帳」も同様です。−−そういったことは、あとで本を読んで初めてわかったことで、自分にはまったくわからなかったし、説明されることもなかったのです。

 つまり、検査とはあの「検査表」を教室状況において見ることであって、検査結果は従って実際の生活の上で出会う様々な対象が実際にどのように見えるのかの情報ではありません。私は、自分の目が原因で起こりうる支障が具体的にどんなものであるのか、それがわからなかったのです。

 2 励ましや助言の不在

 「赤緑色弱」という言葉について、少なくとも、当事者としての私が説明を受けたことがありません(親には説明があったかもしれないが未確認)。

 「医学部は避けた方がいい、学校の先生もムリかも」といった、一生を左右する指導をされながら、精密検査もなければ何の説明もなかったとは、いったいどういうわけだったのでしょうか。

 検査で「色弱」だと指摘されても、励ましケアは、一切ありませんでした。生活上の注意点なども、説明を受けた覚えがありません。唯一の「アドバイス」は、「この道には進むな」という、そういうネガティブメッセージ「のみ」、「それだけ」なのです。私本人の志望を尋ねられたことすら、ありません。

 3 検査の天地

 「検査を撤廃すると、本人が自分の特性を把握できなくなるから、当事者にとっても不利益ではないか」との意見が、よくあります。確かに、自分の特性を知る必要がある場合もあるでしょう。しかしながら、私の経験に即する限り、また種々の体験談に即する限り、このような言い分には全く道理がないと言うべきではないでしょうか。検査をしていても何の説明もなされてこなかったのですから。

  上へ  up

この項、おわり 前へ 次へ