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■ 團伊玖磨の「パイプのけむり」をめぐる三つのエッセイ ■

 孤立と対話: 「色盲」評

0. パイプのけむり

 木下順二の原作に團伊玖磨が作曲したオペラ「夕鶴」は、私のおきにいり作品のひとつだ。同じく團の作曲による「花の街」に至っては、人生の宝物のひとつといってよいほどの好印象を持っている。

 その團伊玖磨が色盲であったことを、最近『ウィキペディア(Wikipedia)』情報で知った。それならきっと著名なエッセイ集『パイプのけむり』に出てくるのではないかと検索したところ、ぱすてるの文献案内に出た。迂闊であったと思いつつ、amazonで探したところ、古本が見つかり、すぐ手に入った。

 私が読んだのは、次の3作品である。

 「色盲」を一読して、これは画期的な作品だったにちがいないと感じた。しかし、「土人」でかなり複雑な気持ちになり、「微温湯」で もっと決定的に複雑な気持ちになった。

 私の見解と團の見解は、根本的にちがう気がする。けれど、同意なり共感なり理解できるところもあるように感じる。しかし、どこが一致していてどこで緊張が生じているのか、ただちにははっきりしない。私にとっては「考えるヒント」に満ちているのである。

 最初に断っておきたいが、これは團の否定や團に対する論難ではない。それに刺激されて自分の意見を展開するとしたらどうなるだろうと考えてみた、一つの模索である。書くのに何日もかかった。團が書いてくれていなかったら、もっと書きづらかったことだろう。

 皆が同じ読後感を持つべきだなどと主張するつもりはない。私は、書くことで自分が何を考えるか模索しているのである。読んでいただいた方々には、私の模索を、さらに考えるヒントにしていただければ、私にとって大変な幸せである。そのとき私は一人で考える存在ではなくなるのだから。

 そういう趣旨での「評」を以下に。

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1. やはり悲しいものである

 「色盲」は、強い意志を感じる簡潔なカムアウトから始まる。−−「僕は色盲である。/従って、実に、実に悲しい思いを、僕は色に関する限り堪えて来ねばならなかった」 (43頁)。

 典型的なことにも図画の時間(!)。無知な教師から無神経な言葉を浴びせられ、クラスの笑いものになったこと。苦痛を避けようとして嘘を覚えたこと。色盲が自分の進路をふさいだこと(43-5頁)。

 しかし、このエッセイは呪詛で終始しているわけではない。色合いの表現の意味に関する軽妙な考察が、そのあとに続く。
 たとえば「ピンク」「桃色」が「色気」を表すのは日本語表現に特有のことで、英語やドイツ語における隠喩としてはむしろ、すこし社会主義的なさま(共産党の赤に対する民社党)を指す政治的な意味になること、そういえば日本語ではいまの「色気」のように「色」がそもそも「えろ」と近いかもしれないといったことなど。
 そうしたすえに、「色盲」を逆手にとった言葉の遊びさえ。「僕は色盲だからね、色の道には全く暗い男だよ」「うそをつけ、お前のはいろめくらだ」(46頁)(1)

 その後に再び色盲のテーマが思い起こされたときには、「今はもう苦にもしていない」「別に困ることもない」(46頁)と、 やや長調気味に転じられている。しかし、エンディングに向かうと再び短調に転じて「無理に威張ってみても、本当のところは、やはり何か寂しい気がする。ああ、僕の感じる茶色は、青は、赤は、黄色は、貴方の、貴女の感じる何なのか?」(47頁)。

 この起伏に富んだ構成が色盲に対する著者の複雑な気持ちや複層的な態度をよく示している、と私は思う。

 つらい体験は恨みの対象だが、ほかならぬ自分の大事な目のこと、仲良くやってゆこうという気持になる相手でもある。無理解にさらされ、叱責や嘲笑を受けもした属性だが、その属性を利用した話題で社交をリードできることもある。自分をしばりもするが、自分の考えを広げるヒントにもなる。その洒脱な話題や固有の考えが、しかし、孤独な声になっていないかという一抹の不安。

 考えてみれば、そもそも「自己」というものは、そんな対立感情がいくつも交錯して葛藤する経験のタバではないか。

 「やはり悲しいものである」という結びの言葉(47頁)も、色盲それじたいの悲しさというよりも、人と人とが何かを伝え合おうとするときの根本問題に触れてしまったことに由来するだろう。

 そこで引き合いにだされている眼球移植のエピソード(47頁)は、興味深い。それは、生身の器官を「移植」できても体験は「共有」できない、という事実を示している。つまり、色盲は視神経の問題であり、眼球の問題ではないので、眼球移植したとしても自分の見え方を相手に伝えることにはならないのである。 だから移植しても相手に迷惑をかけることがありませんよ、という医者の教示に、ドナー志望の著者はホッとしつつも、他面で気づかざるをえないこの絶対的な孤立。−−「色盲は、やはり悲しいものである」(47頁)。

 身体によって冷厳にも他者と切断されている私たち人間がそれゆえにこそ必死に試みる伝達の営みの、この切なさ。團はそれを描いているように私には思えた。

2007年05月31日〜2008年07月26日。2012年7月、一部を加筆・削除・修正

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(1) もちろん「えろ」は英語のeroticに由来する表現であって、日本語の「いろ」と語源を共にしているようなわけではない。また、この言葉遊びに用いられている「色盲」「いろめくら」は、注意すべき表現だと思う。次の説の差別語についての補注で考えよう。→本文へ

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