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■ 團伊玖磨の「パイプのけむり」をめぐる三つのエッセイ ■

批判の批判の批判: 「土人」評

項目内目次 1 主題の選択 2 温情主義批判 3 構図の権力
 4 批判の批判の政治学 

1 主題の選択

発端

 1984年に書かれた團伊玖磨のエッセイ「土人」は、直接的には侮蔑表現(ないし差別表現)の問題についての考察である。だが、それだけに尽くされぬテーマを帯びて、色覚の問題が登場する。

 発端となったのは、当時の中曽根康弘首相が参議院予算委員会の席上、ある質問への答弁で「アフリカの土人のジャズというものは野蛮的なもの」と述べ、これについて多くの非難・論難があったことだった。

 團は、「土人の音楽を土人の音楽と言って何が悪いのか」(65頁)といぶかり、首相批判を批判 し、「土人」は「差別語」ではないと論じる(66-7頁)。黒人たちも、いちいち言葉の詮索でもめるような貧しい精神の持ち主ではあるまい。自分も「色盲」と言われてもいちいち悲しんだりしない気概を持っているつもりだ。そう述べて團は、最終的に、「珍しく中曽根首相の肩を持ちたくなった……[略]……皆で土人の良さに徹した強靱な人民になりたいと思う」(69頁)という。

 これでは侮蔑表現を是認することになるのではないか? 批評の目は、つい、そちらのほうに向いてしまいそうになる。

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何を論ずべきか

 確かに、團の論には飛躍がある。1)首相を批判する言論に誤りがあるとしても、だからといって首相発言が正しいと論証したことにはならない。2)単語「土人」が「差別語」ではないとしても、これを「野蛮」という言葉とセットで用いた首相の表現全体の侮蔑性(1)については何の検証もおこなっていない。 3)むしろ、ジャズに対する侮蔑的な評価において團は首相発言に同意している(2)

 いや、 そもそも團じしんが首相の「肩を持ちたくなった」と公言しているのである。 ここにおける團を論難するのになんの困難や躊躇があろう。けれど、古いテクストの検討にあたっては、それがいま何になるのかと、その今日的な効用なり意義を、問うてみるべきだろう。

 ここで團を論難することが一般的な認識の向上につながるのだ、とでも私は主張するのだろうか。いま話題になっている論ならまだしも、もう20年も前に書かれたエッセイについて? 「ジャングル魔境」の手塚治虫よりもさらに年上、1924年生まれの大正人の「土人」観をとりあげて? それで問題的な現実の何が変わる……いや、「私」は、どんな問題を新たに認識したり発見したりすることができるというのだろうか。

 安易な攻撃的批評は得るものも少ない。それよりも、この作品はもっと注意してみるべき別の側面を持っているのではないか。それは團が意図していないことかもしれない。だが、その論をつくりかえ、展開してみると、大きな教訓を得ることもできるように思う。

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2  温情主義批判

概要

 團の論の要所を抜粋しながら、あらすじを見てみよう。色覚問題は末尾近くで出てくる。番号は私が付したもの。

 (1)「恰も土人の語を差別語のように思って一揉めする人達の孱弱な精神を僕は詰まらぬ事だと蔑んだ」(66頁)(「孱弱」は「せんじゃく」と読み、ひよわな、の意)。
  ↓
 (2)「土人は英語に訳せば native」であるが、「アフリカ黒人とアメリカン・ニグロの友人」たちは「誇りを以って、We, native 云々の語を口にする」し、「We, black people」とも平気で言う(66頁)。
  彼らは「日本人のように一つ一つの語を差別だの何だのと気にするような孱弱な精神」の持ち主ではないし、「土人と呼ばれて怒り……[略]……発展途上国人と呼ばれて感激する程彼等は幼稚な人達では無い」(66-7頁)。
  ↓
 (3)その他の差別語論議も、言われた当の人よりもきまって「周囲の人に依って惹き起こされる」ことが多い。「これは変であ」り、「気遣いの行き過ぎ」である(67頁)。これでは「恋は盲目」とも言えなくなるし、「盲目鰻」も指し示せなくなる。日本語が貧しくなるではないか。
  ↓
 (4)團じしん、「他人に色盲だと言われても一向に悲しまない。逆に、平常にして平凡な色感など無くて良かったとさえ思う。強気なのである。そして、そんな眼を光らせながら、日本らしい日本人の音楽を作ろうと考えている。言ってみれば、僕は色盲の日本土人である事を誇りに思っている」(68頁)。
  ↓
 (5)「珍しく中曽根首相の肩を持ちたくなった。土人という語は良い。皆で土人の良さに徹した強靱な人民になりたいと思う」(69頁)。

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異同

 ここに含まれる論点のうち、私は次の各々については團に賛成できた。すなわち、

  1. 色覚少数者であってもけっして自己卑下するには及ばないこと。
  2. 生まれも育ちも日本であることを誇りとして恥じることはないこと。 
  3. 単語じたいが差別語かどうかという議論には余り意義がない場合が多いこと。

 ただし、これらのつながりについては、私と團とのあいだに相違点があると思う。

 私の考えの中では、1と2と3とのあいだに論理のつながりはない。つまり、それぞれは正しくても、1だから2だ、とか、2ゆえに3である、といったことにはならない。
 私が3に賛成する理由は、「単語よりも論理や文脈が問題だから」 であり、あるいはそれ以上に「差別や侮蔑を言葉の問題に解消してはならないから」である。

 しかし、團の場合は、自分自身が「色盲」であり「日本土人」であることを「誇りに思っている」。それゆえに差別語論議には意義がないという。
 つまり、1ゆえに3であり、また、2ゆえに3なのである。

 私の違和感は、まず、ここに由来することがわかった。

 なるほど、侮蔑的な意味で「土人」と呼ばれた人が言う「土人の何が悪い!」は、正しい態度だろう。しかし、だからといって、「土人」がどんな意味で用いられていようと吟味する必要はない、ということにはなるまい。

 「色盲なんかにへこたれるもんか!」。 そのとおりだ。しかし、だからといって、少年時代の團をひどく傷つけたたぐいの無知蒙昧が蔓延していてもさしつかえない、ということにはならないだろう。

 ところが、團の論理においては、当人が誇りを持っているから、差別語論議には意義がないという。裏返すなら、差別語論議が起こること、つまり差別語に対する批判が起こることは、差別に抗う当人の誇りや気概まで否定されることになる。だから、侮蔑表現にまつわる議論は「気遣いの行き過ぎ」ないし「詰まらぬ気の遣い過ぎ」だ 、という理屈になるのだろう。
 これではやはり、差別発言を放置することになるのではないか……?

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自己の政治学

 いや、しかし、こう整頓してみて、気づいた。團の言い分が一考に値する場合もあるのではないだろうか。

 つまり、いま、まとめながら「差別語に対する批判が起こることは、差別に抗う当人の誇りや気概まで否定される」と書いた、その「差別語に対する批判」が、いわば外野性を帯びているのだとしたら? 「気の遣い過ぎ」にはとどまらない問題を、それは言い当てているのではないだろうか。

 そういえば、私の知り合いの農家に、名刺の肩書きで「百姓」を名乗っている人がいた。 「百姓」は、比較的に近い過去において侮蔑的に使われがちだった言葉である。 「ド百姓」とか「ドン百姓」などという言葉もあった。その人はこのことを知りながら、百姓という言葉を農民であることの気概や誇りを表現する言葉に転じようとしているのである。むろん、この人を第三者に紹介するとき「お百姓さん」だとして言及しても、なんの問題も生じるまい。しかし、その農家が他の誰かから「このド百姓め」などとバカにされたら、激しい怒りか静かな侮蔑をもって応じるにちがいない。そして「百姓のなにが悪い!」と、ますます誇り高く「百姓」を名乗るだろう。

 そのとき、私が外野から彼を制するように「農民をバカにしてはいけない」と述べ、「そも百姓という言葉は」などと講釈しはじめたとしたら。それも、沈着冷静な訳知り顔で。

 團の挙げるアフリカ系アメリカ人が「誇り」をもって「black people」を自称する(3)としたら、それはこの「百姓」の例に似ているのではないだろうか。自己の社会的アイデンティティをめぐるせめぎあい、攻防や政治力学、すなわち「アイデンティティ=ポリティクス」である。

 そう、團の論点もここにあろう。少なくとも、そう読んだ方が、共感と違和感の混じり合った最初の印象よりも、論旨が理解可能なものとなる。すなわち、黒人たちは侮蔑や差別に負けてなどいない。怒りの声をあげ、あるいは静かな気概をもって、「黒」を誇りと捉え返し、生きている。そこで日本の代議士やジャーナリズムが声高に黒人差別反対を叫ぶなど、あたかも非力な黒人たちが「土人」という言葉に傷つけられている一方であるかのようではないか 、と。

 一般化したらこうなるだろう。すなわち、当事者たちが自覚的に差別と対峙しているとき、その対峙に取材することもしないで差別反対を叫ぶのは、この人たちの声を無視するのも同然であるばかりか、差別に反対する自己を庇護者化し、差別されている当事者を被保護者化するものだ、と。

 侮蔑発言そのものよりも、当事者を置き去りにした侮蔑発言批判のほうが、当事者を無力化してしまう、というわけである(4)

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3  構図の権力

問題発言の政治利用

 こうして生じる構図を、温情主義(ないし家父長主義)と呼んでおこう。つまり、守られるべき非力な当事者と、差別反対の主役としての政策立案者やジャーナリズム、といった構図である。

 おそらく、議員やマスメディアのなかには中曽根発言を政治利用するものが現れるだろう。つまり、中曽根発言がいかに「差別」であるか、それがいかに首相の「ホンネ」や「人格」が露呈したものであるか、争うように言い募り、そのことで自分が どれだけ「差別反対」であるかを示して、そのイメージを政治戦略に動員するだろう。おそらく典型的なことに、きっと当事者の声など聞くことなしに。

 「土人」たちが置かれている社会環境の改善にコミットなどしていない人々まで、そうすることだろう。いや、アフリカの話ではない。黒人すなわち土人すなわち野蛮といった等式を思い浮かべながら、あるいは、芸能界やスポーツにおける少数を除いては黒人に有名人が思い浮かばないことについて疑問を持たないでおりながら、しかも自分たちに差別意識はないと信じている人が中曽根首相ばかりではなくかなりの多数に達する、その日本社会に黒人差別はないのかと問題提起したり、その条件を改善するための実践にのりだしたりすることなしに、ということである。

 いや、自分を正義の味方として描き出す結果しか生まない論敵非難。 それをこそ偽善と呼ぶのであろう。そこで、政治家たちは、これもおそらく典型的なことに、「どうしたらよいか」 「なにが欲しいのか」を(そしてしばしばそれについてだけ)当事者に尋ねるかもしれない。そして、その「要望」を自分が「代弁」し、 「政策」として「実現」することで、自分がいかに「言葉だけではない」「ホンモノの革新家」であるか、示そうとするだろう。

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政治力学への動員

 もの言わぬ当事者、いや「要望」だけする受難者としての当事者というイメージがつくりあげられるのは、こうした政治的構図によってではないだろうか。当事者たちの発言には社会編成の哲学にかかわる根本的な問題提起が含まれていたかもしれないのに、それを利権政治の圧力団体にしたてあげてしまうのも、この構図ではないだろうか。これはひとつの動員なのである。

 なるほど、その動員にのることによって、なんらかの利害を実現することはありうるかもしれない。「要望」と「動員」は循環構造になるのである。しかし、この構図が「利権政治ではないのか」「癒着ではないか」との批判を招きよせ、福祉国家についての反省材料として利用されるとき、それは結果的に自助努力イデオロギー治療イデオロギーの強化をもたらしはしないだろうか(5)

 誰の声が降板させられ、誰の声が主役に抜擢されているか。そして、この政治の帰結は何か。團の論はそれを問うたものだと解釈できるのではないだろうか。

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4  批判の批判

隠蔽への抗い

 こうした展開のうえに、色覚の問題が末尾で出てくる。「僕は色盲の日本土人である事を誇りに思っている」(68頁)。

 侮蔑表現は差別を「見える」ものにしていた。露骨な差別を批判・論難するのは、あまりにも当然の、正当なことであろう。声をあげやすい。他の人から促されなくとも当人たちが抗っている。
 ところが、外野からの批判によって「差別語」が封印されてしまうと、その抗いを表現する言葉までなくなってしまう。しかも、悪い言葉がなくなったとしても、排除や差別という問題がそれで解決するわけではないのだ。むしろ、批判が言葉の批判に終始するならば、この優しい社会の「ポリティカル=コレクトネス」は、かえって差別を隠蔽し、あたかもそれが正義であるかのように思い込むだろう。
 それでは、差別に抗って生きてきた人も「見えない存在」と化し、その気概や誇りまで「なんでもないこと」になってしまうであろう。

 これにともない、現状に対する批判は、侮蔑表現や差別発言そのものよりも、その「優しさ」や「思いやり」をこそ批判対象としなければならなくなる。世人はこれを「ひねくれ」と取るだろう。それを知っての批判は、世間から悪玉化される覚悟を強いられる。

 團はそうしたひねくれ役にまわったのだ。
 「土人と言う語は良い」。この文言は、語義や語源に関する実証的研究の結論などではないだろう。そうではなく、差別語批判によって言葉がただ封印され、かえって見えないようにフタをされてゆく存在からの、精一杯の抗いを表現しているのである。

 「土人」が負の烙印として用いられた事実に、團は気づいているにちがいない。というのも、その負性を知らぬ人がどうして、その語とともに 、「実に悲しい思い」を伴う色覚のことや「孱弱な精神」の「日本人」を想起するだろうか。團にとり、色盲とか日本人であること(6)とかは、負の烙印にほかならなかった。そのような星のもとにうまれた自己を呪ってばかりいるのではなく、色覚にかかわらぬ道を求め、むしろ「平常にして平凡な色感など無くて良かったとさえ思う」と必然化して、方言をも含む美しい日本語でオペラを 書こうとしてきた「強気」の團(7)
 「百姓」という言葉が封印されてしまったら、「百姓で何が悪い」と言う表現ができなくなり、したとしても何の刺激も持たなくなってしまう。團はここであえて「色盲」「土人」という言葉を使い、その意味をひっくりかえすことで、それにあらがって生きてきた自己の誇りを表現しているのである。「日本らしい日本人の音楽を作ろうと考えている。言ってみれば、僕は色盲の日本土人である事を誇りに思っている」と。

 この「強気」の論理は、裏返せば、色覚少数者に対する批判ともなろう。つまり、「他人に色盲だと言われ」るだけで「差別だの何だのと気に」しているばかりならば、それは差別語批判が差別構造の隠蔽と持続に寄与しているメカニズムにとってむしろ好適であるばかりか、こうして見えない存在となった自己を隠し通すことしか生まない。それは、隠し通せない人を置き去りにすることにもなろう。

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社会批判としての展開

 こうして、作品「色盲」では「実に悲しい思い」を伴っていた團のカミングアウトは、この作品「土人」において位置づけ直され、社会批判の性格を帯びた。ただし、それは社会の差別構造それじたいを告発するばかりのものではない。

 第一に、差別を「いけないこと」とする常識は広まったものの、それが「言葉で傷つけてはいけない」式の思いやりにとどまり、差別語や侮蔑表現には批判が集中するものの、それが当事者の抗いを無視していたり、それについて言及することを難しくしたりして、そのことで差別的な社会構造はかえって温存されているという、この意図せざる差別性。

 第二に、当事者の声が降板させられ、当事者以外の差別批判が主役化されることで生じる、庇護者化と被保護者化、および温情主義。この構図による声のさらなる剥奪。

 第三に、負の烙印に抗って生き抜く活力や文化をこれまで色覚少数者が育みえずにきて、その結果、自己を隠し続けたり巧妙にやりすごしたりといった適応術が発達し、その姿勢や態度が問題の隠蔽と共振してしまう悪循環。

 第四に、この隠蔽の蓑が、そこに身を隠すことのできない人々や、温情主義に抗おうとする人々を、ますますひねくれた少数者として顕在化させる、優しい社会の論理構造。

 境遇に抗う姿勢を捨てまいとして書かれた團のこの論は、こうした事態を見据えているのではないだろうか。
 そして、このように見てくれば、一斉検査体制の見直しに対して「微温湯」だと激しく非難する團の論も、読解できるものになるように思う(ここでいう「理解」は「賛成」を意味しない。それについては次の節で詳述したい)。

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(1) ここで言う「差別語」とは、「非人」「南蛮」「東夷」のように、特定震いの人を差別することを目的として作られたり、蔑視をもともと含んでいたり、見下すためのみに使われたり、といった言葉を指すことにしよう。
 このような「差別語」は、「江戸時代の身分制度と非人」「南蛮貿易」「征夷大将軍」のように、歴史記述でも用いざるを得ない場合が多い。だが、だからといってその歴史記述(「表現」全体)が差別を上塗りすることになっていると即断することはできない。というのも、たとえば「南蛮」とは当時の言葉をいわば引用しているだけで、かつ、現在はもはや死んだ言葉だということが、歴史記述においていわば当然のことと見なされるからである。
 しかし、それが現在も生きて活用されている語彙であるとすれば、ことは異なってくるだろう。つまり、誰かが今も「南蛮」を差別語として用いている事実があれば(たとえば有力な政治家がヨーロッパ諸国を悪し様に言うためにこの言葉を用い始め、にもかかわらず「歴史的な用語だ」「南蛮渡来とは価値のあることだ」などと自己弁護するなら)、そのときこれはもはや過ぎ去った問題ではないことになる。となれば、歴史の記述にあたっても、その言葉を用い続けてよいかどうか問題になるだろう。「毛唐」はそれにあたる。「部落」もこれに近い。不用意な使用は慎まれるべきであり、歴史記述において使用せざるを得ない場合も「いわゆる」とか「当時の」などの言葉を足すなどの配慮が必要となろう。
 まして、歴史記述において、もし書き手が日本の東北地方のことを見下しながら書物を書いたとしたら、いかに言葉のうえだけで「蝦夷」を「東北の人々」などと言い換えたところで、その作品は差別的であることになる。逆に、たとえば『カムイ伝』や『ルーツ』のような作品において、登場人物が「非人」や「奴隷」という言葉を用い、そう呼ばれた人々を差別し虐待するシーンがあったとしても、だからといって直ちに作品全体が差別助長的だと断じることはできないだろう。
 もっとも、こうした場合、作者の意図とか、作品に込められたメッセージが、序文などで明快に陳述されている、といったわけではないだろう。いや、差別的な意図を覆い隠すためのコメントが添えられていることさえあるかもしれない。つまり、表明された意図やそれについての推測と、作品が実際のところ持っている効果とは、区別すべきことになる。とすれば、作品としての全体と該当の場面をどのように評価するかという問題となる。だから、いかなる作品においても「歴史上の事実だから」と、安んじて差別の場面を描いて良いことになるわけではない。その必然性が問題となる。曖昧なら議論を呼ぼう。
 要するに、特定の単語だけでなく、その具体的な使用法や他の単語との結びつき、全体の中でのその位置と役割などが問題だ、ということになる。そこで、「侮蔑表現」「差別表現」と言うときには、そうした表現全体を指すことにしよう(一般的には、「表現」という場合、言葉ではなく図像や音楽などを指す場合もある)。
 さて、本題にもどって、くだんの発言は「アフリカの土人のジャズというものは野蛮的なもの」という表現。「土人」は、もともと差別語だったかどうかはともかく、実際の使用法の問題として、過去のある時期において、特定の人々を「未開」「原始的」と見なし、軽侮して用いられた語である(『明鏡国語辞典』)。現在でも、特定の人々のみを指して「土人」と言えば、それは生きた差別語となろう。「アフリカの土人」はこれにあたる。この発言の時代にはまだ、他にも「土俗」「土民」などという言葉も、おそらく「風土」などと意味を分有しながら、用いられていただろうし、團の紹介によれば植物図鑑にも「八丈土人はこれを食す」のような用例があり、團も自らのことを「日本土人」と呼んでいるので、これは差別語ではなく誰についても言う中立的な言葉ではないかという擁護論も出てくるかもしれないが、しかし「京都土人はこれを食す」とはやはり言わないだろう。まして、中曽根発言は「野蛮」という言葉と結びつけているのだから、明らかに差別表現である。
 ちなみに、言葉の慣用的な使用法のなかには、注意すべき効果を持っているものが少なくない。たとえば、「機械的な対応」は、「機械」という単語がもともと機械を差別しようという言葉ではなくとも、機械について「杓子定規」「短絡的」といった意味を派生させて用いた例であろう。「反機械的」な喩えである。これと同様に、「近視」が価値中立的な用語だとしても、「近視眼的な対応」といった表現は、近視を「長期的な視座に立てないこと」に喩えており、近視に負性を与えた隠喩だと言える。
 視覚は、「百聞は一見にしかず」という言い方に示されているように、五感のなかでも特権的な地位にある。逆に、そのぶん、これを欠いていると、「盲動」「盲信」「盲従」「盲目的な衝動」「群盲 、象を撫でる」「めくら判」のように、理性の喪失なり限界、少なくともその無作動という意味を伴う熟語や慣用句がきわだって多い。辞書によれば、「盲」を「道理や事情がわからないこと」の意味で用いるのは、「視力障害を比喩として使った差別的な語」と解説されている(『明鏡国語辞典』)。
 「色盲」はそのニュアンスを引き継ぐだろう。つまり、かりに「色盲的な色遣い」などという表現があったとしたら、「近視眼的」と同様、決して良い意味では用いられまい。團の「僕は色盲だからね、色の道には全く暗い男だよ」「うそをつけ、お前のはいろめくらだ」は、あくまで冗談であろうが、これがさらにひっくり返ると(つまり真面目な表現になってしまうと)「色盲」は非常に強い負性を帯びるだろう。
 ちなみに、英語圏で color blind と言えば、色覚の問題よりもむしろ、肌の「色」の問題について盲目的な、つまり人種差別について鈍感ないし無頓着、それを隠蔽した、といった用語法が多い。ピエール=バルーが、「私は色盲なので、人種差別できないのだ」と述べているのは、その負性からの逆用である。
 このように、いくら慣用であると言い言葉遊びであると言い使用者に悪意はないと言っても、その使用習慣が人に対する負性のラベルを再生産してしまわないかどうか考えるべきだし、安易な使用は避けたほうが良いであろう。もちろん、英語の”Love is blind”の訳としての「恋は盲目」も、である。古い作品などでそういう表現に出会うとしても(そしてそれはオリジナルを尊重して、やたらと削除したり修正したりするのが必ずしも良いとは言えないにしても)、それを根拠に今もその表現を使い続けてよいと考えるなら、それは時代劇や歴史記述を根拠として「蝦夷」という言葉を正当化しているようなものではないだろうか。
 團なら「日本語が貧しくなるではないか」と言うだろう。しかし、より適切な言葉が模索されても良いだろう。「伝統」以外に言葉を持ち得ないとしたら、それもまた文化の貧困ではないだろうか。→本文へ

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(2) くだんの首相発言は、1984年3月28日に開かれた参議院予算委員会においてなされたもの。記録から該当部分を抜粋すれば(http://kokkai.ndl.go.jp/)、それは次のとおりになる。

 高桑栄松君 これも総理大臣に伺いたいと思いますけれども、大学入試に多様な方法をと言っておられて、私も基本的に賛成でございますが、具体的にはどんなことが考えられるでしょうか。

 国務大臣(中曽根康弘君) 象徴的な例え話の表現で申し上げますれば、例えば芸術関係の大学というようなものは、芸術性というようなものは知性の世界ではなくして感性の世界であると私は思うんです。むしろ直観力というものが非常に大きな力を持つと思います。例えばアフリカの土人のジャズというものは野蛮的なものでありましょうが、ニューヨークでなぜあんなにもてはやされて世界的に普及したかといえば、やはりアフリカの土人であっても直観力というものは持っておるので、そういう人間的感性においては平等である、同じである。いいものはやっぱり受け継いで持っておる。絵だって、子供の絵というものは非常にすばらしい。幼稚園や小学生の絵の方が我々の絵より立派な絵をかいております。それもやはりそういう直観性、感性の世界というものだろうと思うんです。そういう面で、芸術大学へ入る場合に、数学の試験あるいは英語の試験、国語の試験、理科の試験がこれ以上なければ入れないというのでは、せっかくのその感性という面に主としてさわらないで、多少はさわるかもしれませんが、人間が決められてしまうので、いい芸術家が生まれるはずはない。


 これは、1979年(昭和54年)に導入された「共通一次試験」に関する議論の一部であり、広くは大学改革論議の一部である。芸術家教育の場合を首相がとりあげているのは、この答弁が、とりわけ大学入試の現状について5教科中心ではないかとの批判があることに対する応答の一部だからである。
 つまり、話題の本筋は大学改革論であり、中曽根首相は「もっと多様な入試方法があってよい」との趣旨で答弁しているのである。その趣旨には私も賛成だ。
 團の反発も同様で、その趣旨を見ずに首相の「土人」発言を主題化してしまう揚げ足取りについて向けられているフシもある。実際、團は、まず首相の芸術論について触れているのである。
 その團の中曽根芸術論への反応から、次の点には注意しておきたい。  私の見解を述べておくならば、これは非常にひっかかるひっかかり方だ、ということになる。
 自分の芸術が「感性」「直感力」の問題とされることについてはただちに反論する。が、「ジャズ 」や「土人」に知性なしとするも同然の論理に対しては無反応。さらに自分が他の音楽を「偏頗な場所に生まれるもの」と述べることには何の気遣いもしない。
 この脈絡における團は、自分が傷つけられることには敏感だが、他人が傷つけられていることや自分が他人を傷つけるかもしれないことには鈍感だ。そう見れば、團が「土人の音楽を土人の音楽と言って何が悪いのか」(65頁)理解できなかったとしても、とくに驚くにはあたらないというものだろう。
 なお、團・中曽根両氏によれば、ジャズとはあたかもアフリカ発祥の音楽を黒人たちがニューヨークへもちこんだかのようだが、その意であれば明らかに事実誤認であろう。
 さらにちなみに、中曽根首相が「アメリカには黒人やプエルトリコ、メキシカンが多く知的レベルは非常に低い」と発言して問題が再燃するのは、1986年のことである。 →本文へ 

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(3) 團の文は、「アフリカの黒人とアメリカン・ニグロを友人に持っているが、彼等は誇りを以って、We, native 云々の語を口にするし、We, black people 云々の語さえ口にする」というもの(66頁)。
 「AとBが a と言うし b とさえ言う」という構成であり、誰が何を述べるのか曖昧である。また、単語「土人」と単語「native」が一対一対応するかのような團の議論は、辞書的な言葉の解釈において誤っているように思う。
 私は詳しくないのだが、推測するに、「アフリカの黒人」は、「私は生まれも育ちも徳島県」とほぼ同義で「native」であろうから、そう述べるとしても当然だろうし、そのなかに差別的ニュアンスのないことも当然である。また、「アメリカン・ニグロ」は、アメリカ大陸の「native」とは言い難いように思われる。果たしてそのように自称するだろうか(nativeはアメリカ先住民を指すのではないだろうか)。
 侮蔑的・差別的に用いられる表現を、その侮蔑・差別をはねかえすために意味転換して用いているのは、「アフリカの黒人」や とりわけ「アメリカン・ニグロ」がこれまでの歴史や現在の社会状況との対峙関係を自覚したうえで「We, black people」と自称する場合であろう。→ →本文へ

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(4) むろん、一般的にいえば、本人以外の人から問題提起がなされるのは、「変」なことばかりではないと私は思うし、むしろ社会生活の基本ルールにかかわることだと思う。
 自称に侮蔑・差別の意図がないのは当然のことである。たとえば、「僕はもともと四国の山ザルでね」などと自分で自嘲気味に言っている人物がいる場合、「じゃ、君のことを今日からサルと呼ぶことにしよう」と「周囲の人」が提案してよいかどうか。問題はそれであろう。
 いくら「本人はそれを誇りに思っている」とか「気にしていない」「ニックネームであり、冗談なんだろ?」としても、やはりサルという言葉の日常的用法は考慮に入れるべきであろう。「サル 」には、手近な辞書によれば、「ずるくて小才のきく者や他人のわざなどをまねるのがうまくても独創性に欠ける者を、ののしって言う語」という意味での用例があるし、「猿芝居」「猿真似」 など、否定的な意味の言い回しもある。 むろん、「猿芝居」が語源的には芸能の一分野を指すだけのことだったとしても、そして「猿楽」のように価値中立的な用例があるとしても、「猿芝居」が日常で実際に用いられるときの意味を考慮しないわけにはゆかない。
 ある人をサルと呼んでよいかどうかが問題になるのは、その人にこうした否定的な語義をかぶせてしまってよいのかどうかという吟味の必要を(その人から抗議が来ようと来まいと)、呼びかける側の人が感じるからであろう。
 まして、「大体アフリカの土人には日本語が判らない」(66頁)という文は、 「サルではなくモンキーと呼べば彼にはわかるまい」という理屈と同じで、それじしんが侮蔑発言ではないだろうか。
 −−言葉を乱雑に用いてはならない。むろん、その論理や文脈を含めて。それは社会生活の基本ルールの一つであるはずだ。
 そして、自分の言葉を吟味するために、「この言葉をもし○○の立場の人が聞いたとしたら」と考えるのは、言葉をつかうときに考慮すべき倫理の基本ではないだろうか。なぜなら、関係者が聞いてなかったからOKだ、とか、どうせ相手にはわからないだろう、とか、自分は慣用に従っているだけだ、で済むならば、言葉の吟味はいっさい不要になってしまうにちがいないからである。その不問とその理由の双方が不当であろう。
 単語の意味に限らない。言葉と言葉がむすびついて、暗に侮蔑的な意味を持ってしまっていないだろうか。知らず知らずのうちにも、決まり文句や慣用句が時代遅れになったり問題含みになったりしていないだろうか。
 言葉について無頓着であるということは、自分以外の人間の存在について無頓着であるということである。ひいては、私たちがどんな考えで社会生活を送り、どんな社会をつくるのかについても、無頓着なことになってしまう のではないだろうか。
 むろん、自分にも無自覚なことがあるかもしれないという保留も想定されていることは、言うまでもない。→本文へ

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(5) 色覚を治療しようとする「科学」からする次の見解を参照。

 「多くの人を幸せにするには「科学」が必要です。誰でも納得できるものが「科学」だとするなら、その科学で仲間を広げることができます。科学の運動には対立がありません。意見が違っている人とも、ホントはどうかなと論ずることができます。仲良しの運動です。/ところが一方、自分(やグループ)の利益だけに走る人たちがいます。お金や名誉のためでしょうか。そういう人たちは、自分の仲間たちに有利な状況を作ろうとします。自分たちの利益を守るには、人々を利益で誘導し、納得させるのが一番です。自分の利益に反する人たちは、「敵」に見えるでしょう。だから、自分たちだけのための運動は、力で押し切る運動になります……[略]……/さて、色覚異常の問題はどうでしょう。あなたは科学の運動をしたいですか。それとも力で押し切る運動をしたいですか。/わたしたちは色覚異常の人たちが、希望すればいつでもどこでも誰でも、色覚を普通の人並みに向上させることができる、そんな状況(治療を含む)を日本中、世界中に早急に実現できることを願うものです」(城・色覚問題研究グループ 1990; 58)。

 治療の可能性などいっさい追求してはならないと考えるほど私は素朴ではないつもりだ。しかし、治療のための科学は誰もが納得・合意できるものであり、したがって冷静な話し合いも可能であるが、社会改善の要求は利己主義であり、したがって実力主義に陥るとする、この二分法になにか説得力を感じるほど素朴でもない。
 考えなければならない問題は、社会改善の運動をこうまで悪魔化する論理がなぜ説得に用いられ得るのか、 この文の著者がなぜそれを説得の技術に用いようと着想することができたのか、ということであろう。
 すなわち、「彼らの目には、環境改善は科学的な問いが及ぶ問題ではなく利権政治の力関係の問題だと、映じている」と仮定してやらなければ、ほとんど「理解不可能」な文言ではないだろうか。→本文へ

(6) 戦後、ある世代において、「日本的」とは、ちょうど「ムラ社会の因習」などという時のムラと似て、ネガティブな意味を背負わされている。軍国主義を生み出した半封建制や集団主義、旅の恥はかきすての文化、没論理的で情緒的だとされる日本語、なぁなぁで済まそうとする事なかれ主義、無責任の体系、等々を、「日本的」は指しているのである。→本文へ

(7) 團のこの作品には、著名な「クレタ人のうそつき」と同様、自己言及のパラドックスが含まれている。「日本人のように一つ一つの語を差別だの何だのと気にするような孱弱な精神」(66頁)。「日本人は単語の一つ一つを神経質に気にする民族」(67頁)。−−このように述べる者その人が日本人であるならば、それは「クレタ人はうそつきだ」というクレタ人と同様の逆説となる。團の「日本土人」は、このパラドックスが暗示する自己特権化(自分は日本人的ではない特別な日本人だ)を心情的に回避する役割をも担っているように思われる。→本文へ

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文献

2008年10月。2012年7月、部分修正。

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