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■ 團伊玖磨の「パイプのけむり」をめぐる三つのエッセイ ■

「ある」ことと「つくられた」こと: 「微温湯」評

 カムアウトと返礼 8 自己選別のテクノロジー
 社会的カムアウト  文献 前半へ

7 カム=アウトと返礼

自己にスティグマを 

 團の作品にはそのような社会改革への提言は登場せず、批判の矛先は自己の特性を隠蔽する色覚少数者たちの態度に向けられていた。つまり、姿を見せよ、というのである。そのカム=アウト要請について考えてみよう。

 團は言う。

 「ハンディキャップは、ハンディキャップとして堂々と白日の下に見据えて、どういう風にそれを克服して行くか、ハンディキャップを持つ身を社会の中に共存させて行くかの方法を考える事が大事なのであって……[略]……僕は自分の色覚異常を知らされた時に、教壇に佇たされ、泣いたけれども (9)、その時佇たされた事も、その時の涙も、無駄にはしなかった。どんなハンディキャップも、悲しみも、その事を梃子として強く生きる事が上策であって、その練習は、子供の時からするのが一生のためだと思う」(258頁)。

 趣旨としては、自分を活かすことのできる道をさがし、そこで「こんな運命になど負けてなるものか」とがんばることを、説いているのであろう。彼の場合は、音楽とそこでの精進が、それにあたるのだろうか。彼が「自他共に協力」と言うときの「他」は、その選択と努力を支えてくれる身近な理解者を指すにちがいない。

 広い意味での「他」(世間)の態度は、変化しないもの、いわば定数だとされている。なぜなら、「強く生きる」ために、自分が経験したのと同様の「悲しみ」を他の色覚少数者も「子供の時から」経験すべきだというのであるから、その理屈は、社会の無理解は変わらぬままであると前提しているのに等しいからである。いや、むしろ、冷たい仕打ちを世間に願い出ているのも同然であろう。

 してみると、團のカム=アウト要請は、いわば返礼に向けて、自己自身にみずからすすんで負のシンボルをあえて与えること(自己スティグマ化とでも言おうか)(10)にほかならないことがわかる。いまにみていろ、というわけである。

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優しい社会の落とし穴

 「優しい社会」は、これを複雑なものにする。

 露骨な差別や排除には、声を荒らげて抗議すればよい。「強気」の対応も、むしろやりやすいであろう。

 だが、やさしい社会は、第一に、「色弱の人にも優しい」と言い、しかも「全ての人に優しい」と言わないことのおかしさには気づきにくい。その優しさこそ、特定の人々を劣位に置く構造を前提にした温情主義なのだ、と指摘するなら、あたかも善意を差別ととりちがえているかのような印象を生み、おかしいのはこちら側だと見えかねない。

 第二に、検査や制限の撤廃によって、あるいは「ポリティカル=コレクトネス」(侮蔑表現や差別表現の是正)によって、当事者は自己を部類分けして表現するための言葉(カテゴリー)を失いもする(11)。今日の排除や差別は一般に、こうしてあらわれてきた非言及と沈黙にこそ特徴があるとさえ言える。

 第三に、努力とはひたむきで純粋なものであるべきだし、そうであるはずだ、という美化ないしロマン化を、この社会は好む。そして典型的に、その期待はおとしめられた人々へ向けられる(12)

 こうした状況において返礼としての達成を自分に動機づけるためには、社会に差別的な素顔をさらしてもらわなければならなくなる。当事者は、自分の「インペアメント」を露出させ、同情や善意などおことわりの姿勢で、嫌われなければならない。

 −−このカム=アウトは一種の挑発であるだろう。エッセイ「土人」で「平常にして平凡な色感など無くて良かったとさえ思う」と毒舌の團(團 1987: 68頁)。これを逆差別発言だと論難することはできるだろうか。いや、それは、起立させられて道を制限された人に認められる返礼の権利だとさえ、言いうるかもしれない。

 こうして、團の立つ地点からは、優しい社会が隠し持っている冷たさがよく見える。思うに、その暴露の意義は、「ひねくれた」当事者の姿勢はいったい何を意味しているのか、この状況を生き抜く当事者の姿を見て世間は何を学ぶのか、という問題を提起している点にあろう。

 当事者に向かって、改革案を提言せよと、要求しているのではない。当事者の声を聞けとはよく言われることだが、しかし、その声の大多数は、当事者の声を尊重するとのふれこみで実は自分たちが考えようとせず、誰かが考えてくれることを受動的に待望している。なのに当事者が一般の風潮を批判すると、世間はその当事者を問題視する。こうした回路で発言を封じておきながら、救済の温情を「優しい」と思いこむ社会の自己陶酔なりナルシシズムを、告発しているのである。

 こう解したうえで、高柳のカム=アウト要請と、比較してみよう。だが、それとともに一考しておくべきなのは、カム=アウトはいかにして可能か、という問題である。

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8 自己選別の技術

異なる物語 

 悲しくつらい告知。わけがわらないまま嘲笑を浴びせられた露見。当事者たちは、その体験ゆえに、自分の特性をひた隠しにして……團のカム=アウト要請は、そんな物語を、想定しているように思う。これはこれで、一つの物語であろう。

 そのマイナス体験をプラスの方に向かうエネルギーに転じよ、というのが彼の主張だった。團のいらだちは、負の烙印にあらがって生き抜く活力や文化を色覚少数者が育みえずにきて、色覚特性を秘匿したり検査・選別を巧妙な手でやりすごしたりする技法ばかりが発達してしまったこと(13)に、向けられていよう。その消極性が、問題の隠蔽や私事化と共振し、改革の動きを周囲からの温情という構図に陥れてしまうのだ、というわけである。

 これに対して、高柳のカム=アウト要請は、告知や露見のマイナス体験そのものの不当性を指摘するものであろう。『つくられた障害「色盲」』の帯には「300万「色覚異常者」怒れ!」とあり、2年後の続編は『たたかえ!色覚異常者』とタイトルづけられていた。

 確かに、検査表が(検査表だけが!)読めないために、機会を剥奪され、傷つけられて、呪詛や憤怒の念を覚えた人は数多い。そんな人々にとって、怒りや闘いは当然のことであるにちがいない。これもまたひとつの可能な物語である。

 しかし、他方で重視すべきは、そんな色覚少数者にとって、他の当事者たちが「自分が色覚異常者であることをひた隠しに隠して」、「300万人もいるという本人も、その家族も、ひっそりと息を詰めるように口をつぐんで」いるように感じられたことである(高柳 1998: 57,101)。

 検査と選別の不当性が明らかになったというのに、それにもかかわらず自己の体験を「ひた隠しに隠して」、「口をつぐんでいる」のだとしたら、これらの人々は、不当な差別がまかりとおることに憤りも覚えず、物言えば唇寒し、事なかれ主義に染まって、ほっかむりをしている、とでもいうことになるのであろうか?

 検査と選別が、とくに有効なあらがいの声も出されないまま半世紀も続けられ、当事者たちが「怒れ!」「たたかえ!」と呼びかけられなければならなかったのは、いったいなぜなのか。考えなければならないのは、そこである。さらにもう一つの物語が、ここにはあるように思われる。

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自己選別の技術

 ここで想起しなければならないのが早期告知とその内容であろう。というのも、それこそが、異議を申し立てたり代替案を提起したりする声を封印していたと考えられるからである。

 一例に私は、自分の色覚に支障を覚えたことはないのに、色覚特性を理由とした進路制限に疑問を感じたことがなかった。理科系や教職が志望の選択肢に浮かんだこともない。むしろ色弱ゆえ自分にはこれは不向きな道なのだと自ら他人に説明した記憶すら、ある。

 これは私だけのことだろうか。いや、幼少期におこなわれる検査と進路指導に、どれだけの子が対峙できるだろう。否、そんなことをさせないための早期告知だったであろう。つまり、そもそも色覚のケースにおける早期告知は、衝突や紛争が起こる前に自分で自分に待ったをかけさせるしくみ、社会的選別を自己に代行させる技術だったであろう(14)

 世間はよく、あなたの意識はどうだったのか、と問う。すなわち、あなたの選択は本当に外在的な強制によるものだったのか、内発的な自己決定でもあったのではないか、と。しかし、その「本当のところ」など、私にもわかるわけがない。そのような問いは、実は、この技術が作用した証拠を隠滅するための手段として機能するのである。

 このように「意識の問題」にすりかえることにより、対立軸を曖昧にすること、社会的選別の問題を、自己とは何かという問題に置換してしまうこと、そうして人々を自己への関心でいっぱいにすること。私が自己選別のテクノロジーと呼ぶのは、そういう支配技術のことである。

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自然存在しない声

 世間ではしばしば、「当事者の声」なるものが「自然に」醸成されていると、想像されている。つまり、当事者たちは「ひどい目にあった」と感じており、その経験ゆえに「社会をこう改革して欲しい」という訴えをおのずと身につけているものだ、と想像されている。

 しかし、当事者の声が「おのずとそこにある」とは限らない。いや、苦難の経験じたい、自然存在しているとは限らない。なぜなら、社会は選別を正当化する論理を持っており、その論理によって教育をおこなうからである。すなわち、この障りは本質的なものであり、社会改革はコストがかかりすぎることであるがゆえ、この措置はやむをえぬことであり、本人のためでもあるのだ、と。

 私はここでいう「教育」について、必ずしも学校教育の公式カリキュラムのみを指してはいない。いやむしろ、そのようなカリキュラムを指さない。この論理をいったい誰が、どの学校で、何の科目で、どんな教科書で、習うだろうか。そうではなく、いわば自己形成の隠れたカリキュラムとして、社会の現実が言外に人々にそう語りかけるのである。ただし、この隠れたカリキュラムの作用は学校内の子どもにとどまらず、世間の成人すべてに及びうる。

新たな自分になる

 「声」が存在するとしたら、それは、この内なる声に疑問を付して新しい選択肢をつくりあげるための学習の成果として、に他なるまい。カム=アウトは、秘匿していたアイデンティティの吐露なのではなく、自己を再叙述して新たに何者かになってゆく(「ビカミング」の)過程にほかならない(15)

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9 声と耳

研究の責任

 社会の現実を変えるために、『たたかえ!色覚異常者』は次のように述べている。

 「多くの色覚特性をお持ちの皆さん、ぜひ勇気を出して、もっと大きな声を聞かせてください。/進路を開拓するときや、職場の適性を判定されるときには、ぜひ「実際の現場で実力を試させてほしい」ということを、強く主張してください。たとえそれがなかなか通らなくても、がんばって主張しつづけてほしいと思うのです。/これを実行することで、一般の人たちに……[略]……真実の姿をわかってもらえると思うのです。/色の見え方をわかってもらえれば、「なあんだ、自分たちとちっとも変わらないじゃないか」と、誤解が解けることもあるでしょう。「この仕事なら何も問題はない」「この色をこう改善すれば、だいじょうぶ」と、その対応を具体的に考えることもできます。/色覚に異常のある人でも、適切な環境で、心配なく働く道が、だんだんふえていくと思うのです……[略]……だまっていては、改善は一歩も進まないのです」(高柳 1998:235-6)。

 種々の前進面が含まれた提起だったことを否定すべきではない。しかし、疑問も残る。

 この呼びかけが想定しているのは、ますます少数の「色覚に異常のある人」がそのままの社会に投げ込まれているという事態ではないだろうか。その状況において質問や要望を敢行することは、確かに、通用している自明性への疑念を呼び起こすきっかけにはなるかもしれない。しかし、この孤立状況で個々人が「真実の姿」の理解を求めるのは、やはり無理難題ではないだろうか。

 それとも、当事者たちはまた、「この色、何色?」式の、コミュニケーション論の根本問題に直面させられる堂々巡りを繰り返すべきなのだろうか。危険が伴うとの理由で制限されていたことについて「試させてほしい」という冒険にのりださなければならないのであろうか。「この色をこう改善すれば」の試行錯誤を個々の事業者がおこなわなければならないのだろうか。

 そうではなく、社会環境の改善はやはり学会や研究者が責任をもって提言すべきことではないだろうか。これに必要な検査や調査に個々の当事者が参加することは、ありうる。しかしそれはこのような正当性の転換を前提としてのみありうることであろう。研究の倫理は、被検者のプライバシー尊重ばかりではなく、この社会的責任の自覚にあるだろう。

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文化的創造

 高柳のカム=アウト要請は、専門家の責任を訴えるためにも当事者の声という論理が必要であることを示している。しかし同時に、それが専門家ばかりから言われることの矛盾も、示している。

 「異常」だと言っては「自覚」や「自制と熟考」を迫られ、それは誤診だったと言っては「怒れ!」「たたかえ!」と呼びかけられる。これではまるで催眠術である。そればかりか、問題の定義権を持っているのは眼科医だけという点で、石原時代とどこが変わったのかということになりかねない。そのままでは、ノーマライゼーションの訴えも社会改革の試みも、さかだちした構図になってしまうだろう。

 つまり、誰の誰による誰のための技術であり科学なのか。その転換という観点からすれば、集合的なカム=アウトと声の交流が大切だと考えることができる。

 色盲・色弱については、長い間、当事者の会も家族会も存在しなかった。色覚少数者として生きることの意味のとらえなおしや、新たな生活哲学の創造が、そのぶん遅れてきたのかもしれない。そしてそのまま問題が見えなくなろうとしている。既存のイメージをどう転じ、どんな文化的創造をなしうるか、正当性の論理をいかに組み替えることができるか、という課題が、ここから出てくる。

 たとえば、次の一節に、私たちはどれだけ「わくわく」する思いで接することができるだろうか。

 「全色盲の社会に全色盲として生きるとは、どんなようすだろう……[略]……色についての観念はまったく失われているかもしれない。が、そのかわりに、他の知覚や注意が発達しているかもしれない……[略]……独特の趣向、独特の美、独特の料理、独特の衣装などがあって、私たちのものとはまったくちがう。「色」は、何も指さず、意味も持たない。色の名前も、色を用いた比喩もない。色を表現する言葉もない。そのかわり、たとえば私たちが「灰色」ですませてしまっているものを、きわめてこまかな質感や濃淡で識別する言葉があるかもしれない」(O=サックス、1996=1999: 28。訳文は原著を見て独自に改めた)。


 「「おわかりでしょう」とジェイムズが言った。「色だけでやっているわけじゃないんです。私たちは、見て、感じて、匂いをかいで、それで“わかる”んです。すべてを考えに入れるんですよ。あなたがたは色しか見ませんけれどね」」(同)。


 『ダルトニエン』(色盲)というタイトルのCDアルバム(2007年、OMCX-1180)について尋ねられたピエール=バルーの回答。「このタイトルの背景には、肌の色が区別できない、つまり僕には人種差別はできないという意味があるんだ」。

 語る声が学習の産物なら、聞く耳もこうした創造の産物であろう。語る声が耳を育て、聞く耳が声を促進するといった応答関係(16)、この学習や創造のなかでつくられるものであろう。

 

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注 

(9) これはおそらく話を「強気」の物語にするために生じたソゴ(齟齬)であろう。少年時代の團が泣いたのは「自分の色覚異常を知らされた時」ではない。彼自身の述懐によれば、教師の冷たい仕打ちによって「教壇に佇たされ、泣いた」のであって、そのとき團は「何が何やら判らなかった」のである。  →本文へ

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(10) アメリカで活躍したカナダ生まれの社会学者、アーヴィング=ゴッフマンの概念で、「スティグマ(stigma)」とは身体の傷が負の烙印になることを言う。もともとは古代ギリシャの奴隷の額に押された焼き印のこと。日本語でも「脛に疵持つ者」と言えば、文字通りには不運な交通事故の不幸な被害者を指すことができるにもかかわらず、そうではなく、慣用的には、やましい過去を隠し持つ者、という意味になる。 これは身体の傷が負の烙印になっている一例である。しかし、キリスト教世界において傷跡が特定の場所(たとえば掌)にあれば、それは聖なる痕跡ともなりうる(キリスト受難の象徴)。このようにスティグマは聖と俗をあわせもつ。 この特性から、自分のスティグマを衆目にさらすことによって自己を聖別することが、世間から負の烙印を押された者が採用しうる相互行為戦略の一種となりうる場合がある。→本文へ

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 (11) 差別や排除にまつわって、人を部類分けするための言語上のしかけが、よく議論になっている。
 人の部類分け(カテゴリー化)は、どこにでもある。身近なところでは、親族の呼び名、たとえば叔父・伯父とか姉・妹といった単語があるということ。これがなければ、言及も認識も困難になる。これを、成員分類装置と言ったりする。
 英語で兄と弟、姉と妹の区別をどのように伝えたらよいのか、最初はとまどった経験を持っている人も多いだろう。これは、その言語的しかけが異なり、そもそも兄・弟、姉・妹の関係が有意味なものとして存在するかどうかが異なるのである。
 これと同様に、人間の肌の色を基準とした”人種”分類も、このような仕掛けの一種である。ここでの問題で言えば、「色盲・色弱」といった術語の存在も同様の一種である。その「有意味性」のなかに、十把一絡げの先入観が込められており、排除的な方向で社会的な力を発揮するとき、そこに差別が発生するというふうに説明することができる。
 ただし、これを単に特定部類の人々にラベルを貼って「目立たせる」ものだと理解するなら、ことの半面にしか光があてられまい。それは特定部類の人々を「見えない存在にする」ための装置でもある。たとえば、「愛煙家」「嫌煙家」「受動喫煙」などの語彙によって喫煙・禁煙の是非が論じられていると、「タバコ嫌いの喫煙者」は、「見えない存在」になりかねない。  →本文へ 

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 (12) 石川は、「植民地主義的ノスタルジー」の感情、つまり自らが「否定した者(植民地の「土人」)」に「オーセンティックな美徳を求める」という感情について、H=レインに言及している(石川 2002: 31)。
 援用して、支配的文化の圏外に置かれた人々に美化・ロマン化された努力を期待する姿勢を、この手のノスタルジーの一種と考えてもよいだろう。おとしめておいてたたえることにより、自分の宗主国意識や庇護者意識をかくし、あるいは、うらみやひねくれを禁じる、とも取れる。
 おとしめられている人じしんが自分をそのように描き出して誇りとする場合もある。自分は貧しいが心が豊かなのだ、物質文明では確かに劣るが精神文明では勝っているのだ、とするのがその一例。  →本文へ

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 (13) 色覚検査表を暗記することによって大学入試や就職試験を切り抜けてきたといった体験談は数多い。私の受けた色盲検査では、検査表の下になぜか鉛筆書きで正解らしき数字が記入されており、私はそれを盗み見ることを覚えた。ゴフマンがパッシングと呼んでいるのは、このように当該の属性を論題化させることなく無難に窮地をすりぬけること、やりすごすことであろう。  →本文へ 

 (14) 自我は社会的にかたちづくられるとの命題が、社会学では一般に承認されている。だが、それを単に、比較文化論的な意味で言うだけでは、あまり得るものはない。このように支配や権力を媒介するものとしてそれをとらえるべきであろう。 →本文へ 

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 (15) 自己とはビカミングの過程であるという考えは、G=H=ミードにおける「問題と自己とのアイデンティフィケーション」という考えに由来している。文脈は異なるが、坂本(2005: 210)が参考になる。 →本文へ 

 (16) 対話論的に考えた場合、「責任 responsibility」とはこの応答責任のことでもあろう。 →本文へ 

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文献

2009年10月。2012年、見出しなど手直し。

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