2007年5月20日、『朝日新聞』に「色覚バリアフリー拡大」という記事が出た。「色弱の人にも優しい リモコンからチョークまで」。
私は、こういうことがニュースになるようになったか、と素朴な感嘆をおぼえつつも、それだけではなく、なんだかため息がでそうな気分になった。どうしてだろう。一瞬、自分でもわからない。これは良いニュースではないか。
わからないから、いろいろ書いてみることにした。
2007年5月20日、『朝日新聞』に「色覚バリアフリー拡大」という記事が出た。「色弱の人にも優しい リモコンからチョークまで」。
私は、こういうことがニュースになるようになったか、と素朴な感嘆をおぼえつつも、それだけではなく、なんだかため息がでそうな気分になった。どうしてだろう。一瞬、自分でもわからない。これは良いニュースではないか。
わからないから、いろいろ書いてみることにした。
記者名入りのリード文は言う。−−「NPOなどの活動で色弱への理解が進むとともに、300万人以上ともいわれる色弱者に「広告や商品の良さが伝わらないのでは困る」と企業側が考え始めた」。
紹介されているNPOは「カラーユニバーサルデザイン機構」(略称CUDO)。同機構には、「教科書の色づかいはどうしたらいい」「操作ボタンがみやすいコピー機づくりに協力して」、そんな問い合わせが連日のようにあるという。2004年の発足からこれまでにコンサルティング契約は100件をこえた。
記事によれば、「色弱の人は、赤や緑が焦げ茶色に見えるなど見え方が異なる」。それで、「左右で違う色の靴下を履いてしまった」とか「焼き肉を生で食べてしまった」とか「グレーのシャツと思って買ったら実はピンクだった」といった困難がある。
CUDOの事業は、そんな色弱者の色の見え方の特徴や見分けづらい色づかい、そしてデザインの改善方法を教えることである。 商品やパンフレットの企画段階からかかわり、色弱のスタッフが見やすさを確認した商品や冊子には、独自の認証マークが付けられる。
印刷業者の組織「CAN」はCUDOの監修でマニュアルを作った。具体的な技法を紹介しており、多くの企業が活用している。
全日本印刷工業組合連合会は「メディア・ユニバーサルデザイン・コンペティション」を初企画。カレンダー・書籍・ホームページ・観光案内板などを対象に、識別しやすい配色などの作品を募集している……
記事で紹介された「カラーユニバーサルデザイン機構(CUDO)」のホームページを訪ねてみた。以下、同機構によれば(2007年6月閲覧)−−
色覚には、血液型と同様に、種々のタイプがある。C型・P型・D型・T型・A型だ。従来の色彩デザインの問題点は、このうち「C型」のみを標準としてきたために生じる。これにより少数派のP型・D型・T型・A型が、いわゆる色盲・色弱と して差別されてきた。
これからはこうした考えを改めなければならない。ここでは便宜上、C型を「一般色覚者」、P型・D型・T型・A型を「色弱者」と呼ぶことにする。
21世紀に入り、種々の情報を色分けで伝える仕組みはますます発達している。しかし、これらの「表示は一般の色覚の人の色の見え方だけを考えて設計される場合が多い」。そのため、「色弱者にとって、社会は昔より暮らしにくくなっている」。
確かにカラーバリアフリーが訴えられてもいる。それは「時代の潮流」である。大切なことだ。だが、「色弱者は色が全然分からないのだろうという誤解から色数を極端に減らしてしまった単調なデザイン」も見られるようになってきている。
こうした現状において重要なのは、科学的・実践的な研究をふまえたデザインの工夫である。具体的に、その原則は次の「3+1」である。
+1 その上で、目に優しく見て美しいデザインを追求する。
こうした動きがなぜ今日まで遅れてしまったのか。それは、これまで、色盲・色弱の人々が「進学や就職の際に差別を受けたり、遺伝に関連するため結婚の際にも差別を受けたりする例 」が多かったため、当事者自身、たとえ不便を感じることがあっても、「それをクレームとして指摘するのでなく、自分にも見分けられるふりをしたり、不便を我慢して容認したりする傾向」が生じたという、この差別構造のゆえである。
しかし、この事業は単に、見えづらい人がいるから特別な対応をしようというのではない。種々の色覚が存在することを前提として配慮したデザインは、すべての人にとって見やすい色使いとなる。しかも、そうしていると、色ばかりに頼るのではなく、種々の記号や図案や文字を合理的に組み合わせる工夫にもつながってゆく。要するに、「整理された見やすいデザイン」になるのである。
かくして−−「カラーユニバーサルデザインは色弱者のためだけでなく、全ての人に価値あるものなのです」。
こうして要約してみて、私は、社会の色彩環境の改善に関する考え方がずいぶん進んだことに気づいた。
1990年代後半になされた色覚差別批判においては、まずもって検査体制の理不尽を告発し、進学や就業にあたっての制度的バリアの撤廃を訴えることが、その柱となっていた。私は、それに学びながら、体験を持つ者と持たない者とのコミュニケーションの問題を中心に、当事者-非当事者という二分法の克服を考えていた。
だが、今日の考え方は、バリアフリーを踏まえたうえで「誰にとっても」が趣旨となっているのである。
それと比べてみると、自分のため息気分の理由がわかりかけてきた。
整理するとおよそ次の3点だろう。以下、新聞という媒体がもつ技術上の制約(文字数制限、編集権、速報の必要性、等々)は承知しつつも、それは捨象して考えている。
先の記事は、ものの考え方の枠組みについて、議論になりそうなところや今日までの達成などを、すべて避けている。
これまで色覚少数者が置かれてきた状況、現在の社会環境の問題点、新呼称にかかわる議論……いずれもCUDOが丁寧に論じていることなのに、記事はいっさい触れていない。
見出しや本文中の言葉選びも、そうなると気になってくる。
ユニバーサルデザインとは、 CUDOの述べるとおり、確かにバリアフリーの試みをふまえているけれども、しかし「全ての人に価値あるもの」とするところに前進面がある。
歩道の段差を工夫すれば、車椅子使用者にとってだけではなく、自転車にとってもベビーカーにとっても、優しい街になる。ドアのノブを工夫すれば、手が不自由な人にとってだけではなく、荷物で手がふさがっている人や、災害時にケガをしたときにも、開けやすいドアとなる。
障害者のための特別なものではない。障害者と健常者が固定的に存在しているのでもない。身体の状態は変化するし、条件や状況との関係で誰もが不便な境遇に置かれることがあり得 る(先天性の色覚特性は変化しないにしても、疾病で色覚特性が変化することもあるし、なにより薄暗がりから暗闇になると人類はみな「色盲」である)。それを想定しての工夫は、「全ての人」のためのものだ。
CUDOの姿勢もそれであるように見える。設立趣意書でも、「色弱者のみならず多様な色覚を持つ一般市民にとっても、より配慮されたものに改善されてゆくことを趣意」とうたっている。その名が示すとおり、「カラーユニバーサルデザイン」がCUDO(Color Universal Design Organization)の趣旨なのである。
もちろん、バリア=フリーとユニバーサル=デザインが対立物であるのではない。場合によれば、していることは同じなのかもしれない。だが、それを支える哲学が異なるのであろう。
ところが、記事では、見出しでも本文でもカラー=ユニバーサル=デザインという言葉を一回も使っていない(CUDOの名前紹介は除く)。見出しとリードで「色覚バリアフリー」を用い、本文でも同機構を「色覚バリアフリーを推進するNPO」と紹介している。
記事はまた、このことと大いに関連するであろうが、「全ての人」のためとか、従来の正常・異常の区分を見直すといった論理は紹介していない。見出しは「色弱の人にも優しい」だ。
たとえば、見出しが「全ての人に優しい「色覚ユニバーサルデザイン」拡大」だったら、記事の印象も違ったことだろう。リードが「色覚によるバリアをなくそうというとりくみが実を結び始め、色弱者だけでなくすべての人に恩恵をもたらしそうだ」だったら、ますますちがっていたにちがいない。
そして、そのほうがCUDOの趣旨にとって正確な報道であるように思う。だが、記事は「色弱」の人をクローズアップし、「色覚バリアフリー」という言葉にこだわった。そのうえ、色覚にまつわる議論をなんら紹介していない。今日的達成をふまえている見識も示していない。その結果、記事全体の趣旨がむしろ次のような旧来の構図に陥っているように思う。
この記事が色覚少数者について言及しているのは、次の箇所だけである。−−「色弱の人は、赤や緑が焦げ茶色に見えるなど見え方が異なる 。「左右で違う色の靴下を履いてしまった」とか「焼き肉を生で食べてしまった」「グレーのシャツと思って買ったら実はピンクだった」という人も」。
社会環境の問題には何の言及もない。それとは関係なしに、色覚に障りを抱えて困っている人たちがそこにいる、といった感じだ。それも「異常」(という表現を使ってこそいないが)を印象づけるような例ばかり。しかも、呼称だけはCUDOの「色弱者」に準拠したのだろうか、なんの説明もないまま「色弱の人」である。
これではかえって、「色弱者は色が全然分からないのだろうという誤解」(CUDO)を助長しないだろうか。「色覚の個人差」「多様な色覚を持つさまざまな人々」 (CUDO)といった表現について、読者が考えたり理解したりすることにつながるだろうか。
ちなみに、CUDOが論じているのは先天性の色弱だけではない。白内障や緑内障のような疾病で色の見え方が変化することも指摘している。 記事は、これらの人の存在をも無視するかたちとなってしまっていないだろうか。
また、この記事には色覚少数者(およびその団体)はまったく登場しない。その声についての言及もない。「消費者の感想」すら、なにひとつ挙げられていない。
そして今日のように「色覚バリアフリー」が「拡大」したのはなぜかと言えば、かのリード文、すなわち「NPOなどの活動で色弱への理解が進むとともに、300万人以上ともいわれる色弱者に「広告や商品の良さが伝わらないのでは困る」と企業側が考え始めたからだ」。
つまり、色覚少数者たちはただ困り果てているだけなのだが、NPOがこれを「理解」し、「優しい」社会を作ろうという動きを先導した、そして企業も利潤動機との一致を認めてこれを受け容れ始めた、という構図なのである。
私はなにもNPOや企業を毛嫌いしているわけではない。企業が利潤を追求するのは当然のことだが、その原理とバリア=フリーやユニバーサル=デザインには一致点がありうる。その可能性を、もっと追求してもよいと思う。「300万人」の場合にとどまらず、もっと少数の領域まで。
だが、沈黙する生活困難者としての色覚少数者、改革の主人公としてのNPOと企業。こうした構図で言われる「優しい」は、非常に気にかかる。その構図そのものがバリアだったはずではないのか。すなわち、その構図は、NPOや企業を保護者化し、当事者を被保護者化する、パターナリズム(温情主義)ではないのだろうか。
(この部分がかなり長い間「当事者を庇護者化する」と記されていました。誤記でした。2010年6月20日記)。
記事は、こうした構図の「優しい」がかもしだす温情主義を、1)そのNPOにも色弱のスタッフがいることを示唆し、2)企業の利潤動機とも一致することだと指摘することで、なんとか緩和しようとしているようにさえ見える。
なるほど、私のため息気分の理由は、およそこんなところにあったのだろう。
この記事はバリアというものを物理的なモノの次元でしかとらえておらず、考え方の「枠組み」に生じた重要な変化や進歩を等閑視してしまった。そのため、読者が考えて理解を深めてゆくためのヒントが捨てられているばかりか、かえって旧来の思考枠組みを補強する構図で描写してしまう結果になっている。
今回の動きはけっこうなことだからそれでも良い、のだろうか。いや、「本人のため」と言いながらその実は当事者の声を聞こうとも育てようともしてこなかった歴史と、そしてその「本人」がいつもいつまでも他人事であった歴史と、それは相似の論ではないだろうか。そして色覚検査表の開発も当時としてはけっこうなことではなかったか。そうではなく過去の失敗の原因を悪意にのみ求めるのだとしたら、それは幼稚な歴史認識というものではないだろうか。
よかったでしょ? そう問われたら、たいていの人は「はい」としか答えられなくなってしまうだろう。それが声の無視を正当化しているだろうに、その抑圧性にこの構図は決して気づかない。それどころか、この善意に対して不用意にため息などもらしていては、「せっかくのとりくみなのに」「言葉尻にこだわって」「いつも不平だらけ」で「自分の意見を通そうとしてばかり」の「あの人たち」というイメージを強めてしまうことになるのだろう。してみれば、声をくみあげないままの善意の主張は、それに対する批判者を卑賤な反逆者にしたてあげてしまう仕掛けであるとも言える。
上のように述べたけれど、カラー=ユニバーサル=デザインをとにかくも紹介した記事に意義はあるだろう。それをこんなふうに言って、どこまで理解が得られるのか、その判断に自信はない。かえって、悪い事態にならないだろうか。そんな不安もある。
また、旧来の構図を克服できるだけの声をあげてこなかったのではないか、と言われると、自分自身のこととして、またまた複雑なことを考えなければならないのも事実だ。
こうしたことが、やさしい社会の落とし穴なのかもしれない。
2007年06月01日版。2012年7月、一部表現と見出し等の手直し。