夕闇迫れば

All cats in the dark

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新しい方向に向けて

 Q 今後に向けての展望をもう少し

 A 多様性の尊重という考えを大前提にしていえば、自己の身体の特性についてインフォーメーションを得る機会がないというのは、確かに理不尽なことです。
 ですからまずは「多様性の尊重」という考えをもっと普及させることが課題となります。それに欠如したままであれば、学校現場や社会環境の改善がどれほど説かれても、かえって「こんなに世間に負担をかけて」といった推論を生み出しかねません。あるいは、弱者や障害者に「優しくしよう」といったふうに、「自分」を除外した規範の主張に陥りがちです。
 これは、「ユニバーサルデザイン」の基礎哲学でもあるでしょう。それは、特定の特性を持った人に対する特別に「優しい」工夫なのではなく、そもそも私たち人間がみな不ぞろいであることを前提に、価値と思考の転換をはかろうとしているのだと私は解しています。(その点が、特定部類の人々を想定する「バリアフリー」と異なるわけです。どちらが良いかという話ではなく、両方必要なのですが、両者を識別しなければならない、と私は考えています)。
 しかし、技術としてのカラーユニバーサルデザインの追求にしても、従来の医学部のミッションには入ってはいないでしょうし、さりとて工学部では色覚が専門外になってしまいます。これまでの科学の制度なり組織においては「谷間」「隙間」になってしまうわけです。カラーユニバーサルデザインがNPOなどによって推進されていることは、その証左でしょう。

 このことから導き出されるのは、学術研究のうえでは、学際的・応用的なプロジェクトを創出しなければならない、ということではないでしょうか。
 当事者に対するカウンセリングや支援も、医学上の説明を越えて、社会生活や職業選択についてのそれになればなるほど、これと似たことになるでしょう。

 当事者の「自覚」の必要、とはよく言われることですが、その内実を、診断名だけ告げて「あとは自分で気をつけて」「これこれはやめておいたほうがよい」といった漠然たる否定的な「助言」に終わらせる−−つまりかつての色覚検査と同じことになる−−のではなく、より積極的な支援に結びつける方法はないものでしょうか。
 それについて考えるとき、医学・医療の事例が、大きなヒントになります。かつて、医学や医療は、色覚少数者には向かないとされていた専門職の筆頭株でした。しかし、想像されていたほどに識別が困難であるわけではないこと、また、色の見分けに不安を抱えている場合でも、ひとたび色覚特性が自覚されるなら(検査だけに限らず自分の経験を通してでも)、自身の色覚が秩序づけられ、あるいは、色だけにたよらぬ代替的・総合的な観察法が身についてきて、そうそう容易に単純ミスをおかすわけではないことが、わかってきました。色覚少数者の医師に対する聞き取りなどから、わかってきたのです。
 そういった研究から示唆されるのは、1)当事者の経験に学ぶ方法論、2)積極的な支援、3)働く場での改善、といった構想ではないでしょうか。

 カラーユニバーサルデザインの追究には、当事者に世界がどう「見えて」いるか、その経験に関する知識が欠かせないでしょう。ここには、人々の経験に学び、それを系統立て、科学的に裏付け、社会的に蓄積して、応用する、という方法論が必要になります。
 これができるなら、視認性の低い配色や見えづらい条件に直面した場合とか、混同しやすい自然物の視認などに関しても、代替的で総合的な観察法を模索することができ、当事者に提供することができるようになるのではないでしょうか。
 ユニバーサルデザインは、とかく消費場面とか公共サービスの領域で言われがちでしたが、今後さらに、労働や生産の場においても、「合理的配慮の可能性」という観点から、追究されるべきことになるでしょう。ユニバーサルデザインの思想は、今後いっそう展開すべき余地と可能性を秘めているのです。

 色覚検査が積極的な意義を帯びるのは、こういった社会を実現するための尽力とセットになった場合です。
 こういったことは、学術の制度なり組織の面でいえば、質的フィールドワークを旨とする看護学や、あるいは社会学や民俗学、人類学などと、医学や工学が結び合ったところに成立する学際的・応用的な領域ないしプロジェクトになるのではないでしょうか。人権問題なら法律学の知識とか倫理学や哲学における思索の力も借りたいところです。

 さらに、より大きな文脈になりますが、私たちは、「科学を越えた問題」という問題提起についても考える必要があるでしょう。つまり、「科学に問うことはできても科学だけでは解答できない問題」のことです。
 端的に言って、完璧な色覚なるものを持つことを要求される社会に私たちは住みたいかどうか。それは、科学なり学術が上から目線で「指導」「啓発」するような知の限界点だと言ってもよいかも知れません。そうではなくて、いわば車座になって学び合う市民社会ベースのコミュニケーションが必要なのだと思います。

 詰めていくと、この点でとりわけ重要なのは、「健康」概念の再検討ではないかと思います。
 普通に思い浮かべられる「健康」は、健康と病気、正常と異常、健常と障害のような「二分法」の一項としてあります。そしてその二者の境界線は自然なもので、はっきりしている、と信じられているわけです。
 が、最近の議論では、このような二分法の一項としての健康という観念が、過剰医療を生み出すと同時に、他方で過少医療やケアの欠如を生じさせてきた、という反省がなされています。色覚問題もまさにこの通りではないかと思います。いわば、無病息災を理想とするのではなく「一病息災」でやっていく方向へと−−「そもそも人間は不ぞろいなもの」、その「多様性」とともにやっていく方向へと−−私たちは転換しなければならないのです。

 専門家の役割も、従来の治療(それができない色覚の場合は「不適性」の宣告としてそれが現れたのですが)から、ケアへと大きくシフトすることになるでしょう。
 支援とは、誰か救われている人が救われていない人にほどこすものではなく、お互いのことになるでしょう。
 そのとき、専門家以上に変わらなければならないのは、健康とか健常性についての私たちの常識であるにちがいありません。完璧な身体の人などいないのに、あたかも全く無問題であることが「普通」であるかのように感じ、そのことについて会話すらしていない、しようとすれば通常の生活から出て行かなければならないような不安を感じてしまう二分法の世界に、私たちは生きてきたのだからです。

 それを改めることは容易なことではないかもしれません。しかし、人間が不ぞろいであることを認めることは、なにも消極的なことではないと思います。
 たとえ話として、次の二つの病院を比べてみてください。
 ひとつは、身体の隅々まで検査され完璧だと判定された人ばかりが医師になった病院。もう一つは、「こういう時、私は見づらいと感じる。君はどうだい」「私はそういう時にはここに注意している」といった会話の習慣とその成果が文化なり制度として根付いた病院です。
 さて、私たちはどちらに安心を感じることができるでしょうか。もとより、完璧な条件下ばかりではなく、災害時のように、どんなに薄暗がりでも手当しなければならない状況がいくらでもありうることを、私たちは学んだばかりだったはずです。

 □ 2017年10月29日版

 □ 2016年2月7日初版 □ 2016年6月・2017年3月17日改訂

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