夕闇迫れば

All cats in the dark

■ ホーム > 古テクスト  >  第1集  > これって 

 【要旨】 いわゆる「色盲・色弱」は「色が見えない」ことでも「違う色に見える」ことでもない。色覚に違いがあるとしても対話は成り立っている。それは人間に与えられたすばらしい能力だと思う。

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これって

 私の色覚は多数の方々の色覚と異なっています。昔の定義で「色弱」(しきじゃく)(1)というのです。

 かつては小学校から高校のころまで何度も検査を受けたものでした。そのたびに私は「赤緑色弱」(せきりょくしきじゃく)と言われてきたのです(私の場合、おおよそ1970年代のことです)。

 しかし、「新緑がいいねえ」、「今日の夕焼け、きれいだぁ」などと、平気でお話しできています。日常生活や仕事で困ったことは、一度もありません。「色が見えない」わけではないのです。

 「それにしても検査でわかったのだろうから、普通の人とは違う色に見えてるんでしょう?」。確かに、違う色に見えると訴える方もいらっしゃいます。しかし私の場合、「違う色に見える」わけでもないのです。特定の配色が、特殊な光の具合の中にあったり、微妙なコントラストを作っているとき、ちょっと判別しにくいかな、というくらいのものです。

 が、かりに、特定の色の微妙なコントラストがすこしハッキリしないとしてみましょうか。そのうえでのたとえ話。

 「この料理、おいしいね」と言い合う。他人の感じるおいしさを、私が感じるわけではありません。が、そのとき私は、その人のおいしさを追体験しています。「それではいかん、おいしさの客観的な根拠(2)を確認しなければ、いまの会話は成り立っていると言えない」などという人はいないでしょう。

 あなたの夕焼けと私の夕焼けは、ちがう色かもしれません。いや、厳密に言えば、ちがう色であるにちがいないのです。事実として。でも、それを確かめる方法は、ありません。誰と誰であっても、身体感覚を共有する(他者の色覚を経験する)ことは不可能(3)だからです。

 それでも私たちは対話できています。これは人間に与えられた、とてもすばらしい能力にちがいないと、私は思うのです。

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ノーツ

 (1) 「色盲・色弱」
 当時は、「色盲」と「色弱」とが区別されていましたが、もともとその区別の基準ははっきりしませんでした。現在は「色弱」と呼ぶようになっています。
 用語については議論があり、また、適切な代用語が模索されてもいます。私個人は「色弱」に大きな違和感を持ってはおりませんが、あまり無自覚に用いてよいわけでもないでしょう。ここでは「一般の用語法の引用」という意味で「  」に入れて「色弱」を使うことにします。「色盲・色弱」と書く場合もあります。
 「色覚異常」という言い方もあるのですが、これはあまり良い言葉ではないと、私は思っています。というのも、どんな特性がどんな障りになるかは、その特性だけでは決まらず、社会環境の要因が大きい場合が多い、にもかかわらず、その用語では本質的に「異常」であることが前提されてしまうからです。言われる人の気持ちとしても、一時的なものならともかく身体の恒常的な状態が「異常」と呼ばれるとしたら、どうでしょうか。「異常」という言葉は、使うとしてもやはり「 」に入れたい(少なくともそういう気持でいたい)と思います。
 私としては、「色覚特性」とか「色覚少数者」がよいのではないかと思っています。ただし、呼び名を変えることで、「色弱」なり「色覚異常」と呼ばれている特性そのものの存在を否認したり、いつなんどきも障りになったりしないと訴えたりするものではありません。 →本文へ

 (2) 色覚への過剰期待
 単純に比べるわけにはゆかないでしょうが、このように、味覚と比べると、私たちがいかに色覚に過剰な期待を掛けているかがわかるように思います。
 私たちは日常、「誰もが同一に感じられる味がある」とは、なかなか信じていないでしょう。むしろ、成分的には同じ料理なのに、すごく辛いと言う人があればあまく辛くないと言う人がいる、といった例や、子どもの味覚と大人の味がちがうこと、文化的に異なるお酒や発酵食品の味への慣れ、といった例が、想起されるにちがいありません。違う味覚に対して、どちらかがおかしい、とは、なかなか考えないのです。
 色覚についてはちょうどこの反対のことが信じられているのではないでしょうか。つまり、それは不変で、普遍的であると、信じられているのです。となれば、色知覚にズレが生じれば、それはどちらかがおかしいという経験として枠づけられることになるでしょう。
 広くは「百聞は一見にしかず」のように五感のなかでも視角が特権化されていることと、これは関係するかもしれません。現代では、色彩が伝達技術として用いられることが多いこととも、関係があるでしょう。 →本文へ

 (3) 疑似体験
 最近、「色覚異常者にはこう見えている」式の画像を見ることもできるようになりました。パソコン上では、ウェブページの色合いを実験的に変えてみることもできます。同じ対象を別の色覚で見ることができるわけですから、これはとても貴重なことだと思います。
 しかし、それも自分の視覚を通した体験であって、他者のそれと「まったく同一」と述べるわけにはゆかないでしょう。いわば疑似体験であるわけです。また、ひとくくりに色覚異常と言っても、タイプや度合いにちがいがあり、個々人をとってみると実際にはかなり多様だということも、忘れてはならないでしょう。 →本文へ

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この項、おわり  次頁へ