しかし、たいてい、自分の感覚はフツーで、みんなと共通で、だから「コミュニケーション」(1)ってものができるんだ。そう考えてしまうものです。
【要旨】 コミュニケーションの基礎を、「感覚の共通性」に求めてはいけない。それは、反面に、「変わった特殊な」という観念を生みだして、人をコミュニケーションから排除する。
しかし、たいてい、自分の感覚はフツーで、みんなと共通で、だから「コミュニケーション」(1)ってものができるんだ。そう考えてしまうものです。
けれども、そのような「フツーで共通の」は、その言外に、「変わった特殊な」というカテゴリー(2)を生み出してしまいます。
そのことに困って声をあげておられる方がいらっしゃることを、いろんな本やホームページで知りました。
何の支障もないにもかかわらず(3)、あるいはささいな差異なのに「異常」が負の烙印となって、進学や就職や結婚で、いろんなカベ=「差別」(4)につきあたる。そんなことがたくさんあったのです。
正直、ちょっとショックでした。
私は、これと関連して社会で改善すべき事を考えたこともなかったし、それどころか、いつのまにか、自分と「色盲」の方々を巧妙に差別化していたかも知れないのです。
(1) コミュニケーション
私は次のように考えるのがよいのではないかと思っています。 すなわち、
(1)「共通性」を安易にコミュニケーションの前提とせず、ちがいを前提とする。
(2)「通じてアタリマエ」ではなくて「通じないのが通常」と考える。
その理由は次の通りです。
(2) 「普通」と「特殊」、あるいは「正常」と「異常」
両者は日常的に考えられているほど簡単に区別できることではありません。
なにかを「異常である」と定義するためには、それと対置・比較されるべき「正常」を定義しなければなりません。しかし、いったいなにをもって「正常」とすればよいのでしょう。
「異常なところがない」ことでしょうか。それでは「異常」を前もって定義しておいたことになります。これは「同語反復」(トートロジー)の誤りになります。
「多数の人がもっている身体機能をもっていること」でしょうか。多数とは何%のことか、ただちに問題となります。少数=異常としてよいのかどうかも、重大な問題です。
「通常の社会生活に支障を来さないこと」でしょうか? 社会の状態は、「いつでもどこでも一定」ではありませんから、この観点からの定義は不可能です。
もちろん、「違いなどない」と述べているのではありません。医学的に確認しうる特性のちがいは存在するにちがいありません。けれど、そのどこに線引きをするかは、医学的事実だけでは決まらないように思えます。→本文へ
(3) 「支障」の有無
様々な支障を訴えておられる方もいらっしゃいます。ですから、「色覚少数派であっても社会生活のあらゆる面でまったく支障はないのだ」と、ここで主張するつもりはありません。
しかし、もちろん、「支障があるから排除していい」ことになるわけでは全くありません。そのような排除がなくなる社会を目指すのが、本筋です。
また、その「支障」じたい、色覚特性そのものに由来するというよりも、色分けだけで路線が区別された複雑な地下鉄路線図を例に出せば想像できてくるように、現在の社会のあり方によって生み出されてきた可能性がきわめて高いのです。→本文へ
(4) 「色盲・色弱」と、進学・就職・結婚
進学・就業についての制限は、制度上、かなり撤廃されてきています。しかし、一般に色覚についての配慮がゆきわたっているとは言い難く、就業上はバリアが残存していると思われます。結婚については、制度的な制約はなかったので、その点での新旧比較をすることはできず、未知数の部分も多いでしょう。 →本文へ