夕闇迫れば

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 【要旨】 ホンモノ通りの色でないと美術とは言えないという定義を、いつ、誰が、くだしたというのだろう。専門家とは。

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なんとなくの状況定義

 学校の写生会、うしろから先生が「あの屋根はもっと赤いよ」(第1集第5話)。

 美術には進まない方がよい。そう言われた私は、学習漫画に出てきたその言葉をそのご何度も思い返しました。

 私は中学校の写生大会で山の緑を茶色まじりに描いたことがあります。 自分には薄く見えているはずだから、こうすれば濃く見えるのではないかと、思いこんだのです。秋の山を描いたのに、先生から「こりゃー真夏の山だな」と言われました。まぁ、もともと絵がヘタだったので、「目のセイ」とは思いませんでしたが。

 いや、じっさい、目のせいなどではないでしょう。「君の目には本当の色が見えていない」。これでどうして絵の具が選べるでしょう。そのための混乱のほうが大きかったと思います。

 さらに、よく考えてみると、美術とはソモソモそのようなものなのでしょうか。「あの屋根の赤」と「絵の具の赤」を、完全に一致させることができなければ、それだけでもう美術とは言えないのでしょうか。

 「色弱」「色盲」に美術はムリ(1)。それは、美術とは何かについての特定の考えからなされた進路指導ではないでしょうか。

 ところで、日本の美術界は、そんな定義をくだしたことがあるのでしょうか。つまり、絵画の評価基準に「ホンモノ通りの色合いであること」を加えるというような議論を、したことがあるのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。屋根の塗料の成分を分析し、絵の具のそれと比較して、「この絵の色はじっさいの色と違うからダメな絵である」と言えば、ピカソも雪舟も仰天するほかないはずです。

 つまり、「こんなもんだろう」という定義が、いつのまにかなんとなくなされていて、その観点から「色盲・色弱」を問題視してしまっている、と言えないでしょうか。

 これは技術の問題でも社会制度の問題でもありません。単に、これでよしというものについての「なんとなくの状況定義(2)とでも呼ぶべき問題ではないでしょうか。そして、専門家もその定義にとらわれていたのでは(3)ないでしょうか。

 さらに考えると、たとえば小学生に向かって「色覚に弱点があるから美術はあきらめておけ」という進路指導の論理は、いかなる教育観にもとづいているでしょうか。

 プロの画家になろうとなるまいと、美術を学んだり楽しんだりしてみる権利は、誰にもあるはずです。どう考えたってプロ野球選手になんかなれっこなさそうな子にでも、野球を楽しむ権利はあるように。そうしているうちに基礎体力がついて、当人にとって良い結果をもたらすかもしれません。同様に、写生が好きだった子が、写生を通じて育てた観察眼によって動物好きになり、一流の飼育係になるかもしれません。子どもとはそういう存在であるのではないでしょうか。

 つまり、かりに色覚少数者が画家になるのはとうていムリな話だという前提を受け容れたとしても、だからといって学校で「美術は諦めておけ」などという指摘をされるいわれはないはずなのです。もし「いや、早いうちからわからせておくべきなのだ」というのでしたら、少年野球部に入ろうとしている小学3年生にも同様に言い聞かせておくべきでしょう。「野球選手になるのはあきらめておけよ」と。 じっさい、プロになれる確率なんて、ほんのわずかなのでしょうから。
 初等教育とは、そのようなものなのでしょうか。

 それに冒頭のエピソードはひどい。人の色覚を「暴露」している。この子はきっと、自分の色覚が人と違うことを自覚しているにちがいない(4)。それでも一所懸命に描いている。たぶん、上のような美術の定義によって評価されるのを恐れながら。写生会で笑われ、傷つけられた人だって、多くいる。そんな当事者の心情を考慮にいれない演出だと、私はいま思い出します。

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ノーツ

 (1) できないことの指摘
 デッサンがいいねとか構図がいいねとか、なんか誉めることはできないんでしょうか。私たちは「できない」ことにばかり目を奪われ、「なにができるか」を忘れてしまいがちだという、一例。→本文へ

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 (2)なんとなくの定義
 友人同士で「今日はいい天気だね〜」といった会話をするとき、「いい天気とは何か、定義をしてみろ」と追及する人は、いないでしょう。なんとなくでも意図は通じますし、いちいち定義していたら、気詰まりでやっていられないでしょう。このような「なんとなくの定義」には、何の問題もありません。
 しかし、大勢の人にちゃんと伝えようとしたら、それではすまない場合が出てきます。たとえば、気象庁には、「晴」と「快晴」の違いについて、厳密な定義があるでしょう。気象情報は、その言葉でやってもらわないと、とても困ることになります。色の知覚や呼称が他者と一致しているかどうかが問題になるのは、そうした状況においてでしょう。
 自然現象については、そのように一義的な定義が必要であり、また可能であっても、しかし、これが人文社会のことになると、とても大変です。「いい絵」の含意には、その一つ一つに新たな「評論」が必要です。これを一義的に定義しようとしたら、それは文化をないがしろにすることになりかねません。
 しかし、「いい絵かどうか」のように、意見がわかれるかもしれない時、私たちは、自分で絵を感じることを忘れて、どこからか借りてきた定義や、なんとなくの(実際にはありもしなかったりする)定義を自分で作り上げ、それをモノサシにして見てしまっていることがあります。
 これも、日常生活では、まぁ会話をアツレキなく進めるための社交辞令なり処世術ですむことですが、成績評価や進路指導にそれがもしも入り込んだとしたら、それは問題的だ、とは言えないでしょうか。→本文へ

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 (3)「専門家
 そう考えると、「専門家」の観念について、考え直してみる必要が出てきます。専門家といっても専門外のことについては素人たらざるをえないのでは、ないでしょうか。
 「専門家」とは、ジェネラリストではなく、むしろ、「職能がきわめて限定された人」であるのです。
 確かに、眼科の専門家は、人の色覚について、厳密な測定をすることができるかもしれません。それに異議申し立てをしようとは、私は思いません。しかし、だからといって、人が「美術家としてふさわしいかどうか」を判断することができるとは限らない、と思うのです。
 もちろん、中にはいろんな見識を発揮できる方もいるでしょう。しかし、これは、「人によれば」の問題ではなく、厳に「資格」の問題ではないでしょうか。たとえば、医師は確かに医療行為をおこなう資格があるでしょう。しかし、美術評価の資格はありません。どんなに美術好きの医師であってもです。
 ただし、医師の場合、すこし難しい事情もあります。というのも、「診断」は、医学的事実を述べているだけではなく、社会的処遇についての所見も同時に述べることになる場合が、多いからです。たとえば、「風邪」だとしたら会社や学校を休むように言っているのと同義です。かつては、色覚検査の結果の告知がすなわち社会的措置の伝達でもあった。ここに問題があるでしょう。
 専門家を「専門バカ」と呼ぶこともありますが、それとこれとは違います。「専門バカ」とは、自分の仕事の社会的な責任や役割について無自覚な「バカな専門家」について言われるべき呼称でしょう。しかしこれは、そういった専門家個人レベルの問題でもありません。
 専門分野を深くきわめ、その責任と役割を自覚しようと努力している専門家は、そのテーマについては、とても頼もしい存在であるはずです。私のこのコーナーも、そのような専門家の意見なくしては、とうていなりたちません。その意味で、反専門家主義に私は陥りたくはありません。 →本文へ

 (4) 
 原作に即するならば、これは誤った臆測であったことが、後ほどわかりました。原作において当事者は自分の色覚特性ばかりか「色盲」という言葉も知らない状態であるとされています。それも当時としてはなかなか考えがたいことですが、にもかかわらず「当事者の無自覚」は、色盲・色弱に関して典型的に言われることであり、本文にはそれへの反発心が混入していたと思われます。第5集第一話参照。→本文へ

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この項、おわり  前頁へ   次頁へ