夕闇迫れば

All cats in the dark

■ ホーム > 古テクスト  >  第1集  > 生活の哲学 

 【要旨】 社会的条件の整備は「人のため」にするのではない。私たちがどんな社会をつくりたいのか、その思想と哲学が問われることである。

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生活の哲学

 結局、これは「哲学の選択」に行きつくのではないでしょうか。どんな考えでどんな社会をつくるのか、その基本的な考え方です。

 検査の結果、「これがだめ、あれもだめ」、「なおりませんから」、「あとは自分で自覚してください」。それで おしまいになる社会。あとはおきまりの悲劇物語による解釈が再生産されるだけ。この構造が、社会から聞く耳を失わせているのです。

 検査の結果、こういうことがわかった。じゃあ困らないように、技術をこう使ってみよう、環境をこう工夫してみよう、世の中の慣習も改めてゆかなきゃな!
 私はそういう社会に住みたいと思います。

 「そんな特別な費用負担は、やはり社会にとって重荷なのではないか」といった反応が、よくあります。しかし、少なくとも近現代の歴史は、そのような特別視を除去し、人権を普遍化してきた歴史ではなかったでしょうか。

 人間を「選別」しているだけの社会では、それで「勝者」になった人でも、そのうちきっと切り捨てられることになるでしょう。事故にあったとき、病気になったとき、歳をとったとき、等々。

 それは、ノーマライゼーション(1)とは逆行する考えではないでしょうか。「誰のため」ではない(3)、と思うのです。

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ノーツ

 (1) ノーマライゼーション
 これまでの福祉は、そのような境遇にある人を「収容する施設」を建設するという方向で、なされてきました。確かに、 それも大切な仕事だったと思います。そして今も大事な仕事かもしれません。けれども、福祉が施設収容を意味するだけであれば、そしてその施設がしばしば人里離れた山間地に立地していることが多いなどということになれば、私たちは、怪我をしたとき、病気を得たとき、障害をもったとき、歳をとったとき、お助けなしにはいられない存在として公的な認定を受け、市民社会から出ていかなければならないことになりかねません。
 ことに、「競争イデオロギー(2)が盛んな日本では、その傾向が助長される恐れが強い 、と感じます。
 「共生」が言われてもいますが、それが「福祉」の領域だけで言われていることが、現在の日本社会の特徴ではないでしょうか。経済はあいかわらず「競争」オンリーなのです。そこから「おちこぼれた」人たちは互いに助け合って「共生」してください、と、いわんばかりです。 しかし「共生」とはほんらい経済の問題であるはずです。私も詳しくはありませんが、共生のための経済システムの再構築といった論点が、もっと必要だと思います。→本文へ

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 (2) 「競争」は「社会を活性化する」か?
 もちろん、競争の原理など不要だ、などと言っているのではありません。それは必要なものです。けれども、競争の原理は、競争原理主義では実現しないという特性を持っているのです。
 たとえば、「競走」しろと言われても、相手がF1マシンを持っているのに自分には自転車しかないというのでは、そんな競争には誰もノリたがらないでしょう。かりに条件が平等だったとしても、「負けたら身ぐるみはがれる」となれば、これもノリたがる人は少ないに違いありません。また、その競争が一回だけで、やり直しナシだとなると、なおさらそうでしょう。
 つまり、条件の不平等から結果が予測でき、負けた場合のマイナスが大きすぎたり、敗者復活戦がなく、安全装置がない。そんな条件がそろってしまったら、「さあ競争だ」といっても、みんなシラけきって、社会はむしろ停滞してしまうでしょう。 つまり、種々のルールや規則がなければ「競争」を旨とするはずのビジネスも成り立たないのです。
 このことに無頓着な、競争原理主義が社会を良くするのだといった観念や、人生も生存闘争なのだといった観念を、ここでは「競争イデオロギー」と呼びました。→元へ戻る

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 (3) あなた守られる人、わたし助ける人?
 ノーマライゼーションは、病や怪我や障害などを持つ人を保護の受動的な受け手と見なすことへの反省へと、つながります。その反省なしには、福祉が人から主体性を奪い取ってしまう危険があります。 また、それは福祉の担い手や実践者を保護者と見なす危険にもつながります。つまり、「守られる人、守る人」、「支えられる人、支える人」といった二分法じたいを、「共生」は見直すことになるでしょう。
 ひとつ注意しておかなければならないのは、次のような誤解がここで入り込んでくる場合が多いことです。つまり、ノーマライゼーションとは、病や怪我や障害などを持つ「アブノーマル」な人を社会に適応させて、「ノーマルな人」と同じように生活させることだ、と。そうではなく、ノーマライゼーションとは、そのような人々が「アブノーマル」なのではなく、そのような人々が生活しづらい社会の状態のほうが「アブノーマル」なのだから、その社会の状態を改善してゆくべきだ、という考え方ではないでしょうか。そうした社会的条件の改善によって「ふつう」の生活を送れるようにすることであって、それなしに現状への適応を強いて個人の自助努力を促す思想ではないはずです。→本文へ

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この項、おわり 前へ  次頁へ