こんなサイトを作っているが、毎日の新聞やニュースを「色覚」のキーワードで逐一チェックしているようなわけではない。この記事を見たのも「たまたま」だった。
電子版(2016年6月7日『日本経済新聞』)からコピーして見出しと本文を次に引用しておく。
【要旨】 そもそも問題的なデザインによって人為的に生み出されていた支障については問われることがなく、それを解消することが「色覚障害者に優しい」こととされ、「喜びの声」が期待される。−−論理がさかだちしていないか。
デザインや情報伝達の基本原則が忘れられ、色覚に過度に依存した社会的実践がはびこり、そこに「色覚障害者」カテゴリーが産出される。それがカラフル社会の罪である。
1 2
こんなサイトを作っているが、毎日の新聞やニュースを「色覚」のキーワードで逐一チェックしているようなわけではない。この記事を見たのも「たまたま」だった。
電子版(2016年6月7日『日本経済新聞』)からコピーして見出しと本文を次に引用しておく。
【引用】
色覚障害者に優しく 目覚まし時計の針の色変更など
国内に300万人いるとされる色覚障害の人に配慮したカラーユニバーサルデザイン(CUD)に取り組む企業や団体が増えている。対象も案内図だけでなく、目覚まし時計の針やシャンプーの詰め替えボトルなど生活用品の表示方法にも広がっている。外国人旅行者や高齢者にも役立つこともあり、「誰にでも分かりやすく」が合言葉だ。
「無印良品」を運営する良品計画(東京都)は5月、シャンプーなどの詰め替えボトルに取り付けるカラー識別リングを刷新。明るさを調整するなどの工夫で、色覚障害の人にも色の違いを分かりやすくした。
社外で色覚障害について学んだデザイナーの白鳥裕之さん(32)を中心に、有志が勉強会を重ねて販売にこぎ着けた。白鳥さんは「識別が目的なのに、以前のリングは色覚障害者に不便だったと知ったときは恥ずかしかった」と振り返る。
昨秋にリニューアルした目覚まし時計もアラーム時間を示す針を赤から黄色に変更。色覚障害の人でも分針などと一目で見分けが付くようになった。ウェブサイトには喜びの声も寄せられており、白鳥さんは「日常で使うものを、より多くの人に使いやすくしたい」と意気込む。
公共施設などの案内表示をCUDにする取り組みも各地で広がっている。東京都杉並区の佼成病院は2014年、院内の案内表示を全面的に見直した。それぞれの場所を部門やエリアごとに「色・形・文字」の3要素で分類し、患者には「赤い丸のAへ行ってください」などと説明している。
色以外にも配慮したことで、複雑な構造の総合病院でも迷子になりにくくなったようだ。二階堂孝副院長は「一般的な色覚の人や高齢者にも自然に受け入れられている」と胸を張る。
地下鉄や私鉄では路線図で駅をアルファベットや数字の組み合わせなどで表す「駅ナンバリング」が広く定着している。路線の色分けと駅名だけの表示が主流だった15年前とは大きく状況が変化した。
駅ナンバリングは複雑な鉄道網を分かりやすく表示するのに有効な方法で、海外でも採用されている。今年10月からはJR東日本も首都圏で導入する予定だ。
JR東日本の担当者は「色覚障害者はもちろん、2020年東京五輪・パラリンピックを前に増加する外国人観光客や、首都圏の電車に乗り慣れない人など、すべての利用者にとって分かりやすい表示を目指したい」と話している。〔共同〕
以上に引用したこの記事を資料ないしデータとして考えてゆこう。
まえもって注意しておきたいことがひとつある。報道にはいろいろ特殊な事情もあろう。ここではそれには触れない。また、記者や掲載紙を論難しようというのでもない。ただ「こういう理屈が通りやすい世の中」の一例証としてとりあげようとしているだけである。
この記事について、私には既視感がある。
2016年の上の記事は、「優しい社会の落とし穴」でとりあげた2007年の記事と、次の点で類似ないし共通している。
知見1: 「カラーユニバーサルデザイン」の紹介に、「すべての人に優しく」とは書かず、「色覚障害の人に配慮」等と書く。
知見2: 社会の全般的カラフル化が生み出した支障、といった「社会モデル」の説明はなされない。
知見3: 好ましい評価が寄せられているという伝聞情報として以外、当事者は登場しない。
−−さらにもうひとつ。
知見4: 当事者は、私生活における消費者、公共スペースにおけるサービスの受け手として「のみ」言及され、生産や労働の場面での状況については言及がない。
まず、上記の知見2と知見3にかかわって。
そもそも「目覚まし時計の針」はいつから色分け問題になってしまったのだろう。
長針・短針といい、童謡にも「こどものはりと おとなのはりと」とあるように(作詞:筒井敬介、作曲:村上太郎、「とけいのうた」)、時計の針は「長さや太さ、つまり形を変える」というのが、古典的な基本だったはず。
秒針とアラーム針が加わっても原則は同じだろう。そしてたいていの目覚まし時計はその原則に忠実であるように見える。
くだんの目覚まし時計が、もし、色分けによってしかアラーム針が「分針など」と識別しづらいデザインになっていたのだとしたら、どんな色に変更しようと、それはこの古典的な基本から逸脱した「まずいデザイン」だったのではないだろうか。
使う側も、まずいデザインの目覚まし時計は買わなければよいだけのことではないかと私などには思われるのだが、しかし、色を変更したことについて「喜びの声も寄せられて」いるのだとか。問題は基本原則を逸脱したデザインをありがたがる利用者側にもあるのかもしれない。
「シャンプーなどの詰め替えボトル」に取り付ける「カラー識別リング」に至っては、果たしてどうなのだろう。もはやデザインがただ「かっこいい」「きれいな」装飾のようなものとしてしか捉えられていなかったのではあるまいか。
みなに同じ色が見えているはずだという色覚に関する素朴な前提が、デザインや情報伝達の基本原則さえ忘れさせ、社会の全般的カラフル化を放置・促進してきたのではないか。それが、それだけ多くの支障を生み出してきたのではないか。
その「支障を生み出した人為」を指摘することなく、それを解消することを「色覚障害者に優しい」とするのは、マッチポンプの論理というべきものではないだろうか。
しかし、気になるのは、色覚少数者もまた、これを、人為的に引き起こされた問題ではなく、自分の目の「障害」に起因する支障として、経験し始めていないか、ということである。
色覚に関する素朴な同一性の前提によって無思慮な配色が増えるばかりではなく、多色化の現実がひるがえって当の同一性の前提を補強し、過度に色覚に依存した実践がますますはびこって、その裏返しに「色覚障害者」カテゴリーを産出してしまうに至った社会が、ここには存しているように思われる。
そんなカラフル社会(上記アンダーライン部をその定義としておこうか)への反省や批判よりも、当事者たちには「喜びの声」が期待されている。「優しさ」を批判する者には、どんなレッテルが待ち受けていることだろうか。
もちろん、言うまでもないことだろうが、技術的改善は悪いことではない。気づくたびに改善を試みるべきだ。
デザイナーにも駆け出し時代とか成長といったものがあるのであろうから、気づいて改善したことについては、あたたかく見るべきだろう。
だが、それが技術批判の帰結としてではなく、技術的改善への賞賛や感謝でもって枠づけられるなら、そうとう素朴なことだろう。そこには温情主義の「優しさ」が発生する。
私も、このコメントを何度も「報じられている内容は良いことだが、しかし」と書き始めようとした。それを消し、消しては書き、書いてはまた消して、最終的に、その葛藤を記しておくべきだと思った。
そもそも最初のまちがいを指摘するという選択肢が消去されている。それがこの「優しさ」の仕掛ける罠なのだから。
そんな「優しさ」のなかで、さらに就業上の配慮に関する吟味を求めなければならないとしたら、当事者たちはどれほどの恐縮を余儀なくされてしまうことだろうか。
人為的な問題の等閑視、当事者に強いられる感謝と沈黙。その論理的顚倒(さかだち現象)が、このカラフル社会の罪である。
上記の知見1と知見4にかかわって、ここにおける「色覚障害者」カテゴリーの使用法とその実際的効果について、続編「配慮の不平等という経験」にて考えてみたい。
1 2
■ 2016年9月5日