「カラフル社会の罪」から引き続き考えてみたい。
例にあげた記事では、「誰にでも分かりやすく」「すべての利用者にとって」といった論理が、以前にとりあげた例と比べれば、強く出てきてはいる。
登場する当事者も多様だ。「色覚障害者」、「高齢者」、「外国人観光客」、「首都圏の電車に乗り慣れない人」。
私なども、ときどき東京に出て行くと「首都圏の電車に乗り慣れない人」になるが、東京メトロの路線マークは「わかりやすい!」と感じる。
「自分も割を食ってばかりなのに、あの人たちばかり気遣われ、配慮されて・・・」。ジェラシーと剥奪感。負の逆転現象。
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「カラフル社会の罪」から引き続き考えてみたい。
例にあげた記事では、「誰にでも分かりやすく」「すべての利用者にとって」といった論理が、以前にとりあげた例と比べれば、強く出てきてはいる。
登場する当事者も多様だ。「色覚障害者」、「高齢者」、「外国人観光客」、「首都圏の電車に乗り慣れない人」。
私なども、ときどき東京に出て行くと「首都圏の電車に乗り慣れない人」になるが、東京メトロの路線マークは「わかりやすい!」と感じる。
色覚障害者の求める配慮は、なにも特別なものではない。他のいろいろな人々の要望と、連帯できる。−−いわば障害の普遍化(1)という論理を、ここに見ることができるかもしれない。
「当事者の要求」が、あたかも利己主義的な主張のように、あるいは特殊な利害の追求だと受け止められていた昔と比すれば、これは前進だと評価しておくべきだろう。
しかし、だとすれば、見出しは次のようなものでもよかったはずだ。
・「みんなに優しいユニバーサルデザイン」
・「UDは人のためならず」(2009年11月21日付「KAZ岡田のワシントンDC便り」)
なぜそうではなかったのか。それを考えると、配慮を求める声が置かれた窮屈さを、これは示しているようにも見えてくる。
ここに観察しうるのは、まず、「障害」が配慮を求めるための言葉になっている、という事実だ。
改善を説くにはまず「障害者」に登場してもらわなければならない。障害者に配慮を、という訴えは、今日、「わかりやすい話」になっているのである。が、裏返すと、障害者でなければ配慮しなくてよい、配慮には特別な事情が必要だ、と含意しかねない。だから色覚少数者は「色覚障害者」でなければならなくなる。
が、それはことの半面。見出しで「色覚障害者」を持ち出したが、本文ではそれに集中することができていない、と見ることもできる。つまり、「障害者のために」は、単独では用いることができず、「実はみんなのためでもある」と補足しなければならない。
とすれば、「障害」は配慮を求めるための必要条件となっていても十分条件とはなっていない、とでも言うべきだろう。
一見、「障害の普遍化」と見える論理も、配慮の訴えの広がりではなく、その孤立や弱さを示しているのかもしれないのである。
が、さらにしかし、「みんなのため」も、それほど通用しているわけではないだろう。やはり「障害者」に代表してもらわなければ、インパクトに欠け、ユニバーサルデザインと言っても何のためのものだかわからない。
かくして論理は一周する。
つまり、「障害者向けに」の論理も、「みんな向けに」の論理も、単独では用いることができず、互いに補い合わなければならない、としたら?
いや、相互補完ではないかもしれない。時計の針のデザインのまちがいのように、ただ基本原則から外れていたものを正すだけなのに、それにも「色覚障害者」が登場しなければならないとしたら?
就業上、無思慮な環境やバリアを含んだ条件のために不利益や困難を強いられるかもしれない人々が、その状況について顧慮されることなく、「みんな」の消費生活をいっそう便利にするために引き合いに出されるとしたら?
それが、配慮の主張が置かれた窮屈な境遇の論理的な帰結である。
バリアフリーとユニバーサルデザインの混同も、この窮屈さが強いることだと考えることができる(2)。
ごく一般的に言って、「優しさ」は、それをどこに向け、どこに向けないのか、その選択性によっては、「冷たさ」と表裏一体のものとなろう。
人生論としてはもちろん(自戒も込めて)、社会的にも常にそのことに気を配らなければならないはずだ。
「配慮」を請求する言葉として「障害」を用いるなら、生産と労働の場についての不問は、問題含みだといえる。
「高齢者」や「外国人観光客」との並置は、裏目に出ているかもしれない。「色覚障害者に優しく」という見出しで始まった記事なのに、これらの人々とのあいだに「職場にはいない」という共通項をつくりあげてしまい、「色覚障害者」の境遇のうち、消費者としての存在だけが取り上げられる結果につながっているからだ。
色覚異常を理由とした就業制限の慣習はほとんどなくなった、と、安心しているわけにはゆかないだろう。
これからも社会がどんどん無頓着にカラフル化してゆくなら、それだけたくさんの「支障」の実例が蓄積されてゆくかもしれない。その「社会的につくりだされた支障」の人為性が問い質されることのない社会では、その支障が自然現象だと受け止められるだろう。それが、「障害」を理由とした制限を正当化する論理に再び餌を与えることはない、と言い切れるだろうか。
実際のところ、生産と労働の場において、どんな仕事のどんな条件下で色覚特性がどれほど障りになると予想できるのか。それについて何らかの支援や改善はあるのか、ありえるのか。制限があるとしたら、それは本当にやむをえないことなのかどうか。ケースに応じた進路相談などはなされているのか。
こういうことについて、二言目に「そんな面倒な」とか「やむをえない」などと言わない、言ってはならない。現実としてはカベがあるとしても、それを当然視するのではなく、歯がみでもって見る。
−−それも大切な「優しさ」であるはずだ。
進路に関するケースに応じた相談というコンセプトと比較すると、商品のデザインの改善は、個別対応ではないという特徴も有していることがわかる。
もちろん商品がすべてオーダーメイドであるべきだなどというのではない。しかし、ユニバーサルデザインの商品や掲示が文字通り「ユニバーサル」になっているかどうかは、なお吟味を要することである。字義通り「万人向け」とは、不可能に近いほど困難なことかもしれない。
いや、「だから本当はユニバーサルじゃないのだ」と否定しているのではない。そうではなく、言ってみれば、絶えず声を汲みあげて吟味しようとする姿勢や態度、それをできるかぎり可能にしようとする社会制度を、「ユニバーサル」というのではあるまいか。つまり、「社会のデザイン」にまつわる話だ。
それが、「こうしておけばOK」とばかり受け止められ、「喜びの声」だけが取り上げられるなら、その論理回路はむしろ閉じられているだろう。技術的ナルシシズムとでも呼ぶべきかもしれない。
その裏面に、「ここまで優しくしたのだから、それ以上はもう仕方ない」という論理が発生したら、これはもはやユニバーサルな姿勢・態度とは言えまい(3)。現状の改善に異議を持ちうる個別ケースや少数者に対する「冷たさ」を、それは内包していることになる。
総じて、もしも、バリアフリーやユニバーサルデザインが、当事者を消費者一般としては「優しく」歓迎するが、感謝の声しか受け付けないとか、個別事情には関知しない、働き手として置かれた状況については言及しない、という暗黙の前提でのみ通用してしまう、あるいはその前提を補強してしまうとしたら、その前提を「差別」以外の何と呼ぶべきであろうか?
話は冒頭の資料を離れて展開する。
その不利益感から、当事者が「障害者として認めてほしい」という願いを抱いてしまうとしたら?
実際、ネット検索してみると次のような事例に出会う。
【引用】
私は色弱で、障害者手帳をもらいに市役所に問い合わせたところ、受け付けてくれませんでした。なぜなんですか?就職活動にも不利だし、遺伝だから治らないし、納得できません。
……[略]……小学校のときに検査してわかりました。みんなが「こんな簡単なのも、なんでわからないんだ」って目でみられ、軽くいじめにもあいました。時が過ぎ、高校を卒業し、公務員試験を受けているときに、受験資格のところに「色覚異常者不可」との記載。関係ないなと思っていたら、やはり色覚異常で不合格。これっばかりはしょうがない、親を恨むわけにもいかないとおもって一般企業に就職しました。ですが、よくよく考えてみたら、生活に不自由があるので「障害者手帳をもらおう」と市役所にいったところ、「色覚異常は受け付けません」とのこと。視力が悪い人は受け付けて、色がみにくい人はダメなんて納得できません。生活に不便で、就職も限られる。これを障害といわないでなにが障害だと思いました。
以上に引用した投書の日付は2008年。
投書主は「小学校のときに検査」を受けたという。雑駁な臆測だが、検査が西暦2000年あたり、小学校4年生の時のことだったとしたら、確かにそろそろ「社会に出る」ころだ。
しかし、検査を受けたにもかかわらず、色弱がいわゆる「障害」ではなく、それ用の障害者手帳もないといった、基本的な知識すら与えられていなかったことがうかがえる。また、「公務員」以上に志望が明らかではなく、「関係ないなと思っていた」といった文言からは、進路模索途上で、ケアや助言、支援や相談などを、なんら受けてこなかったのであろうと想像できる。
つまり、進路選択において顧慮を払われることがないまま、世間に投げ出された。この投書主は、その非言及と無顧慮の事態を、端的に実演してみせているだろう(4)。
その非言及と無顧慮のもと、おりもおり、色弱がマスメディアでは「色覚障害」と呼ばれることが増えていたころだというのに(資料集、「報道における「色覚障害」」)、そのじつは制度的には「色覚障害」と認定されていないことが、配慮の不平等な分配という不公平な政治として経験されている点、注意しておきたい。
「視力が悪い人は受け付けて、色がみにくい人はダメなんて納得できません」。
「障害」ならば、いじめに抗議してくれる人もあるだろうし、不利益への補いもあるであろうに、と。
そこには、「負の逆転現象」とでも呼ぶべき事態が発生しているようにも見える。
すなわち、もっと不利な状況にいるであろう「障害者」が「あの人たちばかり配慮してもらって」と特権享受者のように見なされるというジェラシーと、相対的にましであるはずの自己に対する「私だって割を食ってばかりいるのに何の配慮も受けられない」という剥奪感と。
根本的には、これは、健常/障害、正常/異常の二分法と「配慮」の一対一対応が発生させる現象だと言える。
つまり、この二分法における「障害」「異常」には配慮が加えられるが(それがかつては進路制限や過剰医療という形をとったわけだが)、「健常」「正常」には配慮が結びつかない、というわけである(5)。
社会の全般的カラフル化による負の効果が等閑に付され、現今の労働の環境や条件も問われぬまま、「色覚障害」が配慮を求めるための言葉として用いられ続けるならば、当事者から障害者手帳を求める声が発生しても不思議はないのではないだろうか。
ネットでのあるコメントは色覚差別批判に対して次のように論じる。
【引用】
強引に「差別をなくせ?」などと一緒の職に放り込むことが本当に本人のためになるのだろうか。
そんなことをしても色弱者はなくならない。……[略]……本当にすべきだったのは色弱者を障害者と認めることだったのではないだろうか。
障害者と認められたら就職で差別される場合もあれば逆に障害者枠で就職できる人も出てくる。それがなかったから差別だけが行われていたのだ。
ここに引いた意見の大前提となっているのは「色弱であるかぎりどうせ差別はおこなわれる」という現状認識だ。そして、「差別」に対する批判とは差異の否認のことだ、とも見なされている。
その閉じられた論理のなかで、「障害者」と認定されることで制限を受けても、失うものはない、むしろ、狭い門でも「障害者枠で就職」をねらい、職場でもただ「一緒の職に放り込む」のではなくて配慮してもらうほうがまだましだ、という推論がなされているのである。
もっとも、その戦略に現実性があるとは思えない。
国はそんな対応をしはすまいし、色弱に障害者手帳をと訴えでれば、優しいはずの社会もまた、もっと大変な人があろうというのになにを、とバッシングでもって応じるかもしれない(6)。
いや、なにより、互いの配慮でもって一緒にやってゆける可能性が十分にあるものを「障害」として制度的に切り離して特別扱いするほかに対処法を持たない社会は、いっそう窮屈だ。
しかし、このコメントにも重要な点があろう。次のことを言い当てているように思えるからだ。
すなわち、配慮の普遍化を求める言葉として「色覚障害者」が持ち出されながら、しかし「障害者」はむしろ通常の二分法を呼び出してしまっており、その二分法と配慮の一対一対応が、配慮の空白を生み出してしまっていること。その問題が、選択的な温情主義の「優しさ」によって覆い隠されていること。
−−この空白を埋めるためにも、今後、生産と労働の場における配慮とユニバーサルデザインを追求することが、重要であるように思われる。
(1)もともとは障害者運動の中で出て来た言葉。障害者の要求は、高齢者や病人など、他の様々な人々と広く連帯できるはずだ、という考え(杉野 2007: 101-4頁)。→本文へ
(2)ここで考えているのは、バリアフリーとユニバーサルデザインが、技術的に(ないし結果的に)どれほど一致し補い合えるかという問題ではない。そうではなく、訴えなり正当化の「論理」としてのそれである。→本文へ
(3)いますぐの万事解決を求めているのではない。できないこともあるかもしれない。だが、だからといって「仕方ない」と簡単に述べてしまってはならないと、バリアフリーやユニバーサルデザインは戒めているはずではないのだろうか。→本文へ
(4)「検査がなくなったから自覚の機会がなくなり進路相談もできなくなった」とよく指摘されるが、果たしてどうだろうか。私は、この事例のように、検査していても説明もケアもなされていなかった実態がかなりあるのではないか、と想像しているのだが。→本文へ
(5)この問題は「健康」をどう捉えるかという問題に行き着くであろう。松田純は、近年の世界保健機関(WHO)における健康概念の再検討の動きについて触れ、従来の「完全に良好な状態」という「健康定義」が、過剰医療ないし医療化を促進するとともに、治癒困難となった場合の医療の法規、つまり過少医療をもたらしてきた、と指摘している。→本文へ
(6)ジェラシーが「弱者たたき」のかたちをとることについて、小谷敏を参照。→本文へ
小谷敏、2013、『ジェラシーが支配する国: 日本型バッシングの研究』、高文研。
杉野昭博 2007、『障害学: 理論形成と射程』、東京大学出版会。
松田純、2016、「新しい健康概念と医療観の転換」、森下直貴(編)、『生命と科学技術の倫理学』、丸善出版:58-71頁。
■ 2016年9月8日