北海道新聞(電子版)2018/06/21日付より引用−−
色覚障害の生徒に教諭が差別発言 道に30万円賠償命令 札幌地裁
色覚障害がある道央の道立高校の男子生徒に対して、教諭が差別する発言をし、精神的苦痛を負わせたとして、元生徒の男性が道に100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が21日、札幌地裁であった。高木勝己裁判長は「名誉を侵害する違法な発言」として、道に30万円の賠償を命じた。
判決によると、教諭は2016年3月、パソコンの表計算ソフトを使った「情報」の授業中、色覚障害の影響で課題の作製に手間取っていた当時2年の男子生徒に対し、クラスメートの面前で「字が読めないのか。おまえは色盲か」などと発言した。生徒は色覚障害者であることを、教諭やクラスメートには伝えていなかった。
訴訟で道側は「教諭は障害者であることを知らず、侮辱の意図はない」と主張。これに対し高木裁判長は、先天性の色覚障害は日本人男性の約5%が該当することから「教室内に色覚障害を持つ生徒がいる可能性は想定でき、必要な発言ではなかった」と判断。「他の生徒に障害を知られる事態を招き、プライバシーの利益も侵害した」と指摘した。
道教委の土井寿彦総務政策局長は「今後の対応については、判決の内容を十分検討し判断したい」とコメントした。(野口洸、野呂有里)
「字が読めないのか。おまえは色盲か」。
正確にはどんな言葉づかいで、どんな口調だったのかも気にはなりますが、報じられている事実にしたがうかぎり、識字力や色覚の差異をとらえて公共の場で叱責(罵倒?)の材料にした発言かと思います。
しかもなかなか裁判沙汰になりづらいと一般によく言われる学校でのそれ。
それが公式に「差別発言」と認定され報道された事例かと思います。
私が無知なだけかもしれませんが寡聞にして他の前例を知りません。
もし「初めて」だったら、色覚差別史上、画期的なことかと存じます。
記事中、気になることがいくつか。
その一つは、「色覚障害」と「色盲」です。
記事の本文は「色覚障害」「色覚障害者」を用い、教師の発言としては「おまえは色盲か」を引用しています。
このことから「色盲」という言葉を用いたことが差別なのだと受け取る読者があるかもしれません。
「差別」と言えば「呼び名の問題」と考える「言い換えマニュアル」的な受け止め方です。
それは、「はまりがちな型」でも考えたように、一般に広く見られる受け止め方です。記事の印象によってばかり引き起こされるものではないでしょう。ともあれ予期しうる反応かと思います。
確かに、「色盲」はもともと良くない言葉です。曖昧な通称にすぎませんでした。しかも、色が見分けられないといった単純な誤解を広めかねない用語です。さらに、「盲」が一般的に持ちうる差別的な意味を引き継いで、蔑視に用いられやすい言葉でした。
不用意に使ってよい言葉ではないのです。
ただ、それをさしおいても−−
ここでの問題は、「色盲という言葉を使った」ことではないでしょう。「身体の特性を示す言葉を叱責に用いたこと」が問題。それは明白に「差別」なのだと思います。
それと関連してもう一つ。
「生徒は色覚障害者であることを、教諭やクラスメートには伝えていなかった」という箇所です。
これは当の発言が問題であるか否かに関係あることなのでしょうか?
文脈はわかります。「道側は「教諭は{当の生徒が}障害者であることを知らず、侮辱の意図はない」と主張」したとのこと。確かに生徒は「伝えていなかった」というわけです。
しかし、もちろん、それは関係ないでしょう。相手が障害者であると知らなければ、あるいは相手が当事者でなければ、「おまえ、障害者か?」などと叱責してよいのでしょうか?
そう考えると、たとえ当の生徒が当事者でなくとも、また、かりにクラスの中に当事者が一人もいなかったとしても、それは差別発言であることに変わりはありません。教育者としてあるまじきことなのです。
記事の文言というより裁判の内容になりますが、道側の主張「障害者であることを知らず、侮辱の意図はない」に対して、これを受け付けなかったとは言え、その理由が「[当事者であるところの]生徒がいる可能性は想定でき、必要な発言ではなかった」とは、果たしてどうでしょうか。
歴史的に見ると、「伝えていなかった」は色覚少数者に対する烙印の一種であるでしょう。
つまり、色覚特性は外から見てわかるものではありません。それに起因して、色覚少数者には「自分の色盲・色弱を隠している」という「隠匿者のレッテル」が貼られ続けてきたのです。
また、異議申し立てを、過敏な「騒ぎ立て」だと見なす反応も、一般的に見られる現象です。
これに類する被害者バッシングが発生することが予想できます(記事のせいだと述べているのではありません)。
「問題の社会的構成」という社会学の観点からすれば、下記記事の事態については、二つの記述可能性がありうるでしょう。
1)所与の色彩環境や技術の自明視によって、特定の色覚特性が、「色盲」というカテゴリーとして、構成された。
それが「情報」の授業、つまりコンピュータ操作の練習中であった点は、今日的に特に注意すべきだと思います。
このように「カラフル社会」としての「情報化社会」が色覚特性をあぶりだし、人間を選別する新たな環境要因(バリア)になりえます。
パソコンや、より広く、色分けで意味のちがいを示すディスプレイは、いまやどこにでもあるもの。そんな調子でもし「情報機器を操作する分野は避けたほうが当人のため」といった「進路指導」がなされたら、かつてないほど広い分野で当事者に対する排除が新たに発生しえるでしょう。
2)生徒からの申し立ておよび司法的手続きによって、教師の言動が、問題行動として、構成された。
團伊玖磨の述懐と比較すると、時代背景の変化が見えてきます。
小学校時代の團は、美術の時間、ホンモノ通りの色を塗らなかったことを教師によってとがめられ、罰せられ、「心のねじけた子」と呼ばれました。
もちろんそれは團にとって大きな傷となった原体験だったのですが、まだ幼少であり、色弱についての知識もなく、当初は、何が何だかわからぬ経験であり、後のかれにとっても「強く生きる」という教訓を与えた経験でした。
それに比すれば、今日、それはもはや通らぬものとなっていることがわかります。すなわち、虐げられて強くなれ、その機会を与えるのが学校だ、という論理は、もはや通用しないのです。そしてそのことを当事者もまた承知している、と。
歴史の大きな変化です。
−−このように二様に記述する意義は、もしその二つをそれぞれ「差別」と呼ぶならば、その意味のちがいが浮かび上がる点にあります。
前者は進学や就業という人生の大きな選択肢にかかわる排除の問題(欠格条項の正当性の問題)です。
後者は特定の身体的特性をとらえて叱責や論難の材料にするという、いわゆる蔑視の問題、記事中の裁判長の言葉を借りれば「名誉を侵害する違法な発言」、つまり個人の尊厳とか名誉の問題、です。
両者は、現象としては折り重なりながら、概念的には区別する必要があるでしょう。
今回、後者は問題化されましたが(それがもし初ケースなら非常に有意義)、しかしそこに前者の問題が伏在していることを忘れてはならないでしょう。