私には時々、矛盾する(?)二つの感情が生じます。
まず、そのような「悲劇の人格形成物語」が、私に関して描かれるとき、それを拒絶したい感情に私はかられます。そのような物語は、私の「人格」について特定のイメージを貼り付けてしまうからです。が、その反面、私は「理解」もしてほしいのです。
色覚の問題に限らず、一般的に、何らかの改善を求めて社会にアピールしようとする動きは、こんな困難、あんな苦労の事実をあげて訴える、という方法を採用しがちです。それがムダだなどとは言いません。それどころか、とても大切なことでしょう。それなしにいったい誰が問題の所在を理解しようとしてくれるでしょうか。
私じしんも、どんな言葉が気になってしまうか、どんな質問に当惑させられてきたか、そんな経験を書き連ねてきました。
けれども、 それが「悲劇の人格形成物語」という枠組み(1)で聞かれる雰囲気をつくりあげてしまうことになるとしたら。いや、私もその枠組みにハマっていたではありませんか。それが悔しいのです。
どうしてそうなったのかについての分析や、その状況の克服が、なにより必要です。それなしに私はどうして発言できるでしょう。
高度情報社会と言われて久しく、とりわけインターネットは情報の受発信機会を飛躍的に増大させました。個人個人が一人一人、ラジオ局でも持っているようなものだ、とは、よく言われることです。私もいまウェブ頁をこうして作っており、この頁は原理的には世界中から検索可能であるはずです。
つまり、「声」は、従来よりもはるかに多くの人が、従来よりもはるかに大きな音声で、発することができるようになりました。 その意義は疑い得ません。結果、私たちはかつてないほどたくさんの情報にとりかこまれて、生活しています。しかし、その声をどんな耳で聞くのか、それが問題になるでしょう。もちろんここでいう声と耳は象徴的な意味です。