このような「さぞや苦労が」という漠然たる想像のことを、「悲劇の人格形成物語」と呼んでおくことにしましょう。
自分の「色弱」のことをうちあけていても、同情の表情をうかべてくださる方がいらっしゃいます。それはもちろん、「察してあげなければ」という、やさしい、あたたかい気持ちから、だと思います。(それを私は必ずしも不快に感じてはいません)。
けれど、自戒をこめての教訓ですけれど、その想像が、時には、ひどい偏見と相似形にあるということも、忘れてはいけないと思うのです。「さぞやショックだったに違いない」、「どんなに苦労したことだろう」。そのような想像が、「トラウマになっているのではないか」、「コンプレックスをもっているのではないか」 といった想像につながってしまいます。
ここには、「絶対に追体験できない、普通とは違う人格形成をして、普通とは違うものの感じ方をするようになった、特別な人々」というまなざし(1)が、成立していないでしょうか。
やまいやしょうがいや、もっと一般化して、いわゆる「普通」の人生コースにはない経験について、理解をしようと思う方々でも、その姿勢ゆえにこそ、「でも、自分の何気ない一言がすごい傷を与えてしまったら、どうしよう」といった不安を、持つことが多いと思います。
簡単に「わかるよ」といったカオができないのは、当然だと思います。確かに、人の痛みはわからない、悲しいけれどもその通りだからです。けれどもそれは、人間が人間であり神でない限り、甘受しなければならない定めというものです。根絶できない。だから、「傷つけてしまったらどうしよう」という気持は、共有できない経験があっても、それでも人と友好的でありたいという 、根元的な人間存在の社交性に根ざした不安でもあるでしょう。
けれど、世の中には、「さぞや苦労が」の想像が、ぜんぜん違う言い方につながることもあるのです。 たとえば、「だからあの人たちは社会性に欠けてしまうんだよ」、「問題を解決するには、まず彼らの意識を変えることが必要だ」といった、本末転倒な言い方がそれです。
両者は、異なる感情から出てくるものとはいえ、なんと似ていることでしょうか。つまりそれらは既に、「人格」に対する裁断になってしまっているのです。