夕闇迫れば

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 【要旨】 「どんなに苦労が・・・」という想像は、やさしい配慮に根ざすものではあっても、漠然とした想像である限り、いわゆる偏見と相似形におちいる危険をもっている。

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悲劇の人格形成物語

 このような「さぞや苦労が」という漠然たる想像のことを、「悲劇の人格形成物語」と呼んでおくことにしましょう。

 自分の「色弱」のことをうちあけていても、同情の表情をうかべてくださる方がいらっしゃいます。それはもちろん、「察してあげなければ」という、やさしい、あたたかい気持ちから、だと思います。(それを私は必ずしも不快に感じてはいません)。

 けれど、自戒をこめての教訓ですけれど、その想像が、時には、ひどい偏見と相似形にあるということも、忘れてはいけないと思うのです。「さぞやショックだったに違いない」、「どんなに苦労したことだろう」。そのような想像が、「トラウマになっているのではないか」、「コンプレックスをもっているのではないか」 といった想像につながってしまいます。

 ここには、「絶対に追体験できない、普通とは違う人格形成をして、普通とは違うものの感じ方をするようになった、特別な人々」というまなざし(1)が、成立していないでしょうか。

 やまいやしょうがいや、もっと一般化して、いわゆる「普通」の人生コースにはない経験について、理解をしようと思う方々でも、その姿勢ゆえにこそ、「でも、自分の何気ない一言がすごい傷を与えてしまったら、どうしよう」といった不安を、持つことが多いと思います。

 簡単に「わかるよ」といったカオができないのは、当然だと思います。確かに、人の痛みはわからない、悲しいけれどもその通りだからです。けれどもそれは、人間が人間であり神でない限り、甘受しなければならない定めというものです。根絶できない。だから、「傷つけてしまったらどうしよう」という気持は、共有できない経験があっても、それでも人と友好的でありたいという 、根元的な人間存在の社交性に根ざした不安でもあるでしょう。

 けれど、世の中には、「さぞや苦労が」の想像が、ぜんぜん違う言い方につながることもあるのです。 たとえば、「だからあの人たちは社会性に欠けてしまうんだよ」、「問題を解決するには、まず彼らの意識を変えることが必要だ」といった、本末転倒な言い方がそれです。

 両者は、異なる感情から出てくるものとはいえ、なんと似ていることでしょうか。つまりそれらは既に、「人格」に対する裁断になってしまっているのです。

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ノーツ

 (1) まなざし
 古い言葉でいえば「レッテル貼り」、人口に膾炙してきた社会学用語で言えば「ラベリング」に近いでしょう(「ラベリング」はかつて「レッテル貼り」とも訳されていました)。
 けれども、「レッテル貼り」とか「ラベリング」などという場合には、ハッキリとした発言として出されたものを思い浮かべることが多いのではないでしょうか。しかし、そうとは限らぬ言外の含意のほうが、より重要かも知れません。旧バージョンでは「ラベル」と表現していましたが、その点について考え、「まなざし」にしてみました。
 もっとも、「言外のまなざし」にも、但し書きが必要かも知れません。まなざしと言えば、蔑視とか白眼視といった場合のように、具体的な態度となって表れる人の心の「偏見」や「先入観」が思い浮かべられるかも知れないからです。しかし、それとも区別しておきたいと思います。これは、言葉遣いや論理の運びがどんな含意を論理的に伴ってしまいがちか、という問題であって、個人の「意識」の問題とは限らないからです。
 大切なことがあります。人にラベルを貼ると、貼られたその人はしばしば、本当に「それらしく」なっていくよう追い込まれる、という場合がありえます。あからさまな侮蔑や敵意には反発や抵抗がしやすくても、言外の含意は、一定の論理をもっていて、言われた人自身の内面でも反復されやすいように思います。
 たとえば、「父親のいない子は発達に困難を抱えることが多い」という言い方があります。仮に、これが心理学的・精神分析学的な事実であり、語っている人に悪意はないとしても、しかし、それがおおっぴらに語られることには大きな問題があると思います。父親のいない子がこれを聞いたら、それは人生や存在そのものに対する負の烙印となるでしょう。自分の未来が予言されているようなものです。実際に父親がいないことと、そんなつらい言葉にさらされて生きることと、どちらがより大きな「困難」をもたらすでしょう。
 もっと単純に、「あの人はヘンだ」というラベルを貼ってみてください。すると、その人は、実際にはもともと「ヘン」でなくても、人と話すとき、必要以上に言動を意識しすぎて、かえっておかしなことを言ったりしたり、してしまうかもしれません。
 「親をうらんでいるにちがいない」という視線で、ある人に接してみてください。その人は、そんなふうに見られているなんて、この世に生まれてきたことはやはり不幸なことだ、と、本当に感じるようになってしまうかもしれません。
 「色覚異常」とされた人の中には、確かに、「親をうらんだ」「コンプレックスを抱いた」という方も、いらっしゃるでしょう。しかし、上のことを考えてほしいのです。人をそのような気持ちにさせていくのは、「うらんでるだろう」「コンプレックスをもってるだろう」という、まさにその、周囲からのまなざしなのではないでしょうか。 →本文へ

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