いかがでしょうか。「偏見はやめよう」という結論は、その通り、としか、言いようのないものです。人の苦しみはわからない。それもその通りでしょうね。もっとも、「具体的に学んで想像しようとする努力なしには」と、付け加えたいところですが。
それより、今の私は、そこに至るプロセス、つまり論理のはこびに、違和感をおぼえるのです。それを要約してみると、以下のようになりましょうか。
【要約】
(1)私は「色弱」。でもみんなとそんなに違わない。「色盲」と呼ばれても「大同小異」。
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(2)なのに誤解されたり、将来が限定されちゃう。
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(3)自分より重い病気やしょうがいをもつ人たちの苦しみって、もっとスゴイんだろう。
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(4)それは、その立場に置かれた人にしか、わからない。不用意な言葉、まして偏見はよくない。
(1)については、前々頁で考えました。(1)から(4)の全体は、その論理の拡大だと、思うのです。特徴点を挙げると次のようになるでしょうか。
- ■ 特徴点1
- 自分は「フツー」の側に入れている。つまり、言葉で説明すれば分かってもらえるだろうと前提している。だから色盲や色弱について言葉で説明している。
- ■ 特徴点2
- その一方で、他の病気やしょうがいをもつ人たちについては、「本人にしかわからない」(だから私にも誰にもわからない)、閉ざされた世界の住人としてイメージしている。また、具体的には何も知ろうとしていない。
- ■ 特徴点3
- だいたい、自分には問題ないのに未来が制限されるというのだから、それは、非常におかしなことではないだろうか。それへの批判はぜんぜんない。
ないまま、だから他の病気やしょうがいをもつ人は、もっと苦労しているに違いない、と想像している。具体的な社会問題の事実認識としてではなく、漠然と。
- ■ 特徴点4
- 何気ない一言でそんな人たちを傷つけたらどうしよう。思いやってあげよう、偏見はよそうね。
つまり、あの人たちは自分の言葉をどう受け止めるのか、想像もできない人たちだ、という論理が背後にある。
およそ、以上のような理屈になってしまっています。
これでは偏見を除去する方策はなにも生まれないに違いありません。偏見はやめようという主張も、これでは「話題にするな」と言っているようなものです。それが、バリアを作ってしまってる。
誤解を招く言葉や、人に不快感を与える言葉は、もちろん、改めなければなりません。でもそれに加えて、どんな論理がかたちづくられてしまっているか、が、いっそう大きな問題だと思うのです。