体験的に考えてみますが、それで大事だなと感じているのは、「事実を具体的に知る」ということです。知ろうとしてみることです。そして、「ほんのちょっとでもいいから関わって動いてみる」ということです。
なにも、「あなたも色弱を理解しろ」「色弱者のために行動してくれ」と言っているのでは、ありません。色弱のことでなくてもいいのです。
私は色弱のことをきっかけにして、考えています。では、あなたにとっての課題は?
話を聞くとは、なにより、そのような問いが誘発されることではないでしょうか。
私がそんなことを考えるようになったのは、いわゆる障害を持つお子さんを持つお母さんたちのグループと交流して、療育情報誌を編纂する作業の片隅に参加したことでした。公園・公共施設・お店や食堂などの「バリアフリー度」をチェックするというのが、私たちのいただいた企画でした。が、私たちには、何をどうチェックしたらいいのかもわかりません。「わからないから教わってみよう」。自然に、そう思いました。
他の勉強会で知り合っていた、難病にたちむかっている方、それと、初めてではあるけれど、車椅子の会の方に、お話をうかがいました。おうかがいしてみると、どれもこれも、その立場になってみればしごく当然のことばかり。「そんなことを知らなかった私」がむしろ驚き。これは「わがこと」なんだと気づくまで、そう時間はかかりませんでした。
それと矛盾するようですが、もう一つ。「自分の見地から発信できることは何だろう」、と。
いわゆる障害を持つお子さんを持つお母さんたちを前に、その立場が「わがこと」だなんて、とても安易には言えません。基本的に、それは教えてもらったり、学ぶしかないものです。でも、その人たちだって最初からそうだったわけではなく、戸惑い、悩み、学び、知って、その結果について教えてくれているのです。この声に接するとき問われるのは、「では自分は自分の経験からどれだけ学んでいたのか」ということ ではないかと思ったのです。
忘れ物があった。それは何であり、なぜ忘れていたのか、そこのところから、考えてみよう 。それを、今からでも表現してみよう。そうすることが、この人たちの「話を聞く」ということになるのではないか。
「当事者」とはボランティアに行ったらそこにいる人なのではなく、自分のことなんだとリアルに認識することがなければ、いつでも、当事者からの訴えは「かわいそうなあの人たち」の物語に転化してしまうことでしょう。
すべての人が何事かについての当事者でありうる。そうなるためには、きっかけは何でもよい、動いてみることが必要だと思うのです。そうして初めて得られる知というものがある、と。
わたしはわたしの生きる場で。あなたはあなたの生きる場で。それが体験を交流することにつながるでしょう。それが、私を支えることにつながるし、あなた自身を支えることにつながるし、お互いに支え合うことにつながるのだと思います。