「何を書くか」と「いかに書くか」の両方が、書くことで次第に固まってきたように思います。
社会の制度や現実の実状を紹介する頁にするという選択もありえたでしょう。それも重要な仕事でしょうし、私の論も結局はそれに関係するでしょう。けれど、書いているうちに、自分の焦点はもうすこし「人と人とのあいだ」にあるように思われてきました。
そのようにして「コミュニケーション」 というテーマが浮上してきたとき、「いかに書くか」も考えざるを得なくなってきました。なぜなら、この文章だって「コミュニケーション」のひとつだからです。 どんなかたちで発信すればよいのだろうか?
これにはいろんな意味が含まれていることに、これも書きながら気づきました。
かわいそうな、不幸な、特別な体験をした、あの人たち。そんなイメージ(悲劇の人格形成物語)を固定化する語りになってしまっていないだろうか。
発信者になって最初におぼえた不安は、それでした。
ことにコミュニケーションを問題にするとなると、それはえてして世の「無理解」や「偏見」を指摘することになりがちです。むろんこのコーナーも広い意味ではそれを問題にするわけですけれども、それが世間一般を論難するような書き方になってしまっては、一緒に考えてくれるかもしれない善意の人たちをも責め立ててしまいかねません。
これと関連して、そんな高見にたった書き方は私の事実とも異なる、ということでした。
知っているはずなのに知らなかったという自分の体験をどう受け止めるかという問題が、ずっとひっかかっていたのです。それもただの無邪気ではなく、世間に流布している支配的な考えによって自分もまた既に枠づけられていた、という体験です。
その枠づけとは、端的に言えば、「社会的に設定された制限を、自然な支障と考える、とりちがえ」にほかならないでしょう。
今日では、色覚異常を理由として設けられていた制限の多くが撤廃されてきています。つまり、「正常/異常」のあいだに引かれていた境界線の位置が変わったのです。しかも、この境界線の移動は、単に 科学の進歩によって誤りが明るみに出て正された、といったことではありません。そうではなく、この移動は、その境界線がいかに「自然の属性」(その研究)だけでは決定されず、そこにどれだけ多くの「社会的な要因」や「人為的な状況判断」が入り込んでいたかを、示しています。
このことが与えてくれる教訓は、「仕方がない」と安易に言ってはならない、ということでしょう。
どこかで線を引かなければならない事態は最後まで残るかもしれません。しかし、そのときの落とし穴は「こうしてギリギリまで研究したうえでのことだから やむをえない」と考えることでしょう。きっと、今までの人も、そう考えてきたのではないかと思います。それこそが、社会的・人為的な要因を等閑視してしまう陥穽なのではないでしょうか。
私じしんもそれによって枠づけられていたという経験は、この陥穽を分析してみることなしには社会批判に向かうこともできない、ということを意味しています。
つまり、私は当事者だから発信したのではありません。当事者であることに気づいたから発信したのです。いや、より正確に言えば、発信しながら考えたのです。書く作業もいたるところで模索だらけでした。隠していたアイデンティティを初めて公開したという意味での「カミングアウト」 ではありません。いわば「ビカミング=アウト」であったわけです。今もなおビカミングの途上かもしれません。
こう考えると、陥穽の分析は、なにも後ろ向きの内攻ではなく、そこからの脱出法を考えるという課題と直結することになるでしょう。
「黒板に赤チョーク」や「ホームページの配色」や「地下鉄路線図」などについて、配慮がなされるようになれば、確かに大きな前進だと思います。それを論難する理由など何もありません。大賛成です。
けれども、それがもしも「ハイ対応しました」でおしまいになってしまうのであっては、どうでしょうか。それは、たとえば身障者用トイレや車椅子対応エレベーターは次々にできるけれど優先席はいつも満員といった、この社会を象徴する、もう一つのエピソードになってしまうのではないでしょうか。
いわゆる差別語の問題とも似て、重要なのは結論ではなく過程です。「○○という言葉を使ってはいけない」という結論だけが世に流布し、そしてそれだけになってしまっては、容易に「言葉狩りだ、逆差別だ」といった反批判(?)が出てきてしまうことでしょう。それでは、社会全体として、 問題のありかや差別についての認識が高まったことにはならないのではないでしょうか。
つまり、いわゆる「当事者」が次から次へと指摘し続けなければ、誰も何も考えてくれない世の中なのでしょうか。こうして「声高な主張」と「他者化」(あの人たち視)が相互増幅のスパイラルに陥る気がするのです。そうしてここに、「いつもうるさく言い募る人がいるばかりに」といった批判(反逆児化)がしのびよってきます。それもまた私たちが「聞く耳」を失ってゆく構図ではないでしょうか。