夕闇迫れば

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 【要旨】 「当事者−非当事者」「障害者−健常者」の二分法に陥らない発信方法は?  コミュニケーションにとっての課題群。

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聞く耳を持つ社会に向けて 中

4 主体化の物語

 当事者への配慮とは、よく言われることです。むろん、当事者の声は聞き届けられなければなりません。しかし、では、「当事者の意見が待望される社会」 「ハイ対応しました社会」が「聞く耳をもつ社会」であると言えるでしょうか。

 まず、不当な社会構造による被抑圧経験を持つ当事者がそこにいる、という大前提があるでしょう(犠牲者化)。そして、当事者は、その被抑圧経験ゆえ、沈黙しているわけがない、少なくともなんらかの意見を既に持っているもの、と期待されています。そしてその意見は社会が積極的にとりいれるべき価値を有しているものだ、と見なされています。いわば当事者は社会批判の正当な有資格者なのです(ヒーロー化)。

 私は、当事者をこうしてドラマの主人公にしたてあげる(「主体化」する)期待構造を、あまり肯定的には見ていません。むしろ、批判・克服しなければならない側面を多分に含んでいるものと見ています。それはおよそ次のようなことです。

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 4.1 当事者の自然存在という想定

 色覚の問題は、「当事者ならば、自然に現存の社会構造に疑問を感じ、その結果として社会を批判し始める」、といった事態を想定することが難しい事例でした。

 まず第一に、私はそもそも、自分がひどい目にあったと感じていませんでした。それ以上に、「仕方がないんだ」という自己説得を、私じしんが 自分自身に対して、したと思います。

 私に限らず、そして色覚のことに限らず、問題が「不運」として受け止められ、その当事者も「仕方がないんだ」と自分に言い聞かせている、という体験がかなり多くあるのではないかと想像します。

 第二に、自分よりも普通から遠い色盲というカテゴリーへの言及によって色弱である自分を多数者化しようとしたのが、私の経験でした。そんな私にとって、社会批判は、それ以前に自己批判を必要としました。

 しかし、その自己批判は、単なる懺悔ではありません。というのも、それは私の「意識」の問題ではなかったからです。そうではなく、それはこの社会で主流もしくは支配的なものとなっている解釈枠組の問題でした。さらに、その枠組みを再生産している社会構造の問題でした。

 当事者の自然存在を前提することはできません。なぜなら、既に存在するのは「個人的不運だと思わせる枠組み」であり「不当な体験とは思わせない枠組み」のほうなのですから。

 いわゆる当事者にもたくさんの気づきや学びが必要なのです。

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 4.2 属性との強制的な関連づけ

 私はなるほど色覚少数者ですが、「それだけ」の存在ではありません。特にその問題について専門家たるべく勉強を積んできたわけでもありません。なのに、私は、色覚少数者であるというだけで、当該の問題について的確な批判をおこなうに足るほど詳しいにちがいない、詳しくなければいけない、ということになってしまいます。発言したりし始めたらなおさらです。

 私はこうして「色覚」と距離をとることなく、むしろそれと密接にからんだアイデンティティを持っていると想定されてしまいます。上の犠牲者化もヒーロー化も反逆児化も、アイデンティティに関するこの想定を基礎にしています。私はそうして一元化されます。

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 4.3 声の社会的封鎖

 「当事者」にやさしい社会、「当事者」の発言を尊重する社会。それは確かに重要なことではありますが、しかし当事者が属性との関連で一元化されるとき、このキャッチフレーズは問題含みのものになります。 なぜなら、そのときこのキャッチフレーズは次のように語っているも同然になるように思うからです。すなわち、

 「語っているのは当事者だ」。

 障害について語っているのは障害者かその家族に違いない。差別について語っているのは差別されたことがある人にちがいない。フェミニズムについて語っているのは女性であるはずだ。男がそれを語るなんて、なにか偽善者っぽい……。

 となると、さらに次の問いが続くにちがいありません。「語っているお前は本当に当事者なのか」、「本当の当事者なのか」 。本当に本当の当事者でもないのに語っているなんて、なにか怪しい……。

 さらに、かりに私がその異端査問をクリアしたとしても、今度は次の問いかけが続くにちがいありません。

 「おまえが本当に本当の当事者であるとして、そんなに珍しいことがらについて非当事者に向かって語りかけたとしても、誰が理解してくれるわけがあるのか」と。

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 4.4 耳の社会的封鎖

 語り手がこうして暗箱化されると、聞く耳の側も封鎖されてゆきます。

 当事者が一元化された自然存在と想定されるとき、当事者=語り手の意見や考えが学んだすえに身につけたものであるとは、考えられていないでしょう。そのことと平行して、非当事者も学んだり話し合ったりすれば理解できることがあるかもしれないとは、想定されていないでしょう。

 その図式によれば、なるほど、「私の話を聞け」と主張できるようになるかもしれません。しかし、それによって当事者の語りが一種の託宣ないし啓示になってしまうと、その事態は、非当事者を、体験が共有できない咎で責め立てられているかのような恐怖感や、相手を「何気ない一言で傷つけてしまったら」という恐怖感、当事者でないというだけで差別に加担しているかのようなうしろめたさで、満たしてしまうのではないでしょうか。

 もちろん、安易にわかった顔などできるものではない、ということは繰り返し書いてきた通りです。当事者の声は尊重されなければなりません。しかし、それがこうして耳を遠ざけてしまうことがありうる。そのような事態をとらえて語り手たちはしばしば「世の人の無関心」を嘆くことになります。ここで失われているのは声と耳の応答関係でしょう。声が耳を遠ざけ、遠い耳が声を封じているのです。

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 4.5 スティグマ

 「スティグマ」という言葉があります。E=ゴフマンの『スティグマ』という書物の冒頭の説明に従えば、古代ギリシャの奴隷の額にあてられた焼き印のことであり、つまり目に見える傷が負の烙印となってしまうことを指します。ゴフマンの書物は、この負の烙印をもつ人々が社会関係をどうきりぬけてゆくかという分析をおこなって秀逸です。

 しかし、スティグマにはもう一つの意味があって、もしその傷口が掌にあれば、それはキリストが磔刑に処されたときの傷であり、「聖なる傷」、つまり聖痕となるのです。

 つまり、さげすまされた存在か聖者か。私がここで述べたのはその「聖者化」のほうの作用だということになりましょうか。

 「主体化の物語」は、「真の当事者」にのみ発言させ、そのことによって当事者を常に「あの人たち」のブラックボックスにほうりこんでゆき、 あるいは誰が本当の真なる聖者であるかの紛争をまきおこさせて、その声が唱和を導くことのないようにし、結局は私たちを社会的に孤立させる他者化装置なのです。

 いわゆる「障害」とともに生きつつ、「クライ顔しない。私たちは元気だ」。友人たちのそんな言葉や姿は、一見したところの「主体化の物語」なのではなく、むしろこの他者化に対するカウンターだったのではないかと、私は思い起こします。

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