主体化の物語は、「不幸な人たちと、対応してあげた社会」とか、「がんばる悲劇の主人公と暖かく支える友人たち」といった、よくある構図 と、きわめて共振しやすい側面をも持っています。だとすれば、それは皮肉なことに受動化の論理と一体であることになります。
この主体化=受動化の論理は、単なる受動化よりも、いっそう深刻な問題をはらんでいるようにおもいます。というのも、私は「声をあげる」ことにのみ、あるいは努力をピュアな精神で絶やさずにいることによってのみ、つまり主体的であることによってのみ、「えらいね」「がんばる姿が美しい」と評価され、その限りにおいてのみ社会に「理解してもらい」、「助けられ、守られる」ことになるのです。
ところが、色覚特性の問題は、このような図式となじみにくい性質を持っていました。つまり、その特性は、努力によって克服できるようなものではないのです。したがって、当事者に求められてきた「自覚」も、たんに社会生活から身を引いておくこと、自制でしかありませんでした。社会的要求を正当化するためにさしだすべきなんの「努力」も、なしえないのです。
この点、色覚特性の問題は、主体化の物語に対する懐疑のきっかけになりうるでしょう。
いわゆる障害者が「主人公」になるドラマやマンガ作品などが、既に多く作られてきました。それらが主要メディアに載るようになるまでは、本当に多くの人の苦渋に満ちた闘いがあったのだろうと 想像します。そのことの意義を否定するつもりなどありませんし、むしろ逆に、尊重しなければならないと強く思います。しかし、それを今日までの前進として、さらに、次のように問わなければいけないと も思うのです。すなわち、「どうして通行人として登場しないのか」と。ノーマライゼーションとバリアフリーの時代には、「主人公」でなく「エキストラ」こそがふさわしいのではないか、と。
これは、言葉としては、友人の言葉の受け売り。もちろん、自立できているのだから理解や協力は不要だ、などという主張ではありません。当事者−非当事者の二分法によって主人公化され、真理獲得者として祭り上げられ、その実は一人で考えることを余儀なくされてしまうよりも、車座になって話し合ったり学び合ったりすることはできないか、という問題提起なのだと思います。
当事者性はこれらのことをふまえて構想されなければならないと思います。
現今、「誰にもありうる」という言い方が一般化しているように見えます。 たとえば、老いは誰にもまちがいなくやってくる、だから高齢者福祉は誰にとってもわがことなのだ、と。
これは確かに当事者性を広く自覚するために好適な論理かもしれません。けれど、その達成をふまえたうえで、さらに吟味をほどこすべきではないでしょうか。つまり、「誰にもありうる」とはそれほど容易に言いうることか、と。
老い、そして死は、誰にもまちがいなくやってくるでしょう。しかし、たとえば自分の子が障害を持って生まれてきたかどうかといったことについて言えば、それは「あったか・なかったか」の、バイナリーな(二進法的な0か1、白か黒の)事態です。
生得的なものはこの現在完了形の典型でしょう。色覚もそれであり、生まれつき色覚「異常」のなかった人が人生の途中から「少数者」の側にまわることは、きわめてまれなのです。視力の後天的な変動が誰にでもあることとは好対照だ、と言えるでしょう。視力に対しては「技術を人に合わせて」が標準になっているのに色覚に対しては「人を技術に合わせて」が支配的だったことは、これに関連している のではないでしょうか。
つまり、考えなければならないのは、あなたに起こった事柄が私には決して起こらず、私に起こった事柄があなたには決して起こらないという、この非対称であることになるでしょう。想像力や創造力を試されるのは、ここにおいてだと考えることができます。つまり、「誰にもありうる」とは、現実的には誰かに起こり誰かには起こっていないけれども、にもかかわらずそれは潜在的には誰にも起こりうることなのだ、と捉え直す営みなのではないか。そして経験者の話が「特別に聴くに値する」普遍性を持つのは、そのように捉え直されたときではないでしょうか。
こう考えなければ、私たちは、 具体的に我が身のこととなるまで、ないしは100%の確率で将来的にそうなるという問題についてしか、「その声を聴こう」という耳を持ち得ないことになってしまうように思うのです。
自分の身体は、実はこのようなことについて考えさせてくれる格好の対象ではないでしょうか。色覚について決して悩まされることのない人が、他方では高血圧の体質かもしれないといったように、「オール100点さん」「ずっとパーフェクト氏」はどこにもいないのですから。
同様に、フェミニズムの論調については無頓着に生活している人が不登校問題の当事者かもしれません。不登校についてはなんのかかわりもない人が性同一性に悩んでいるかもしれません。性同一性については考えたことのない人が、他の理由でもう死んでしまいたいという思いに囚われているかも知れません。そうして、これらを社会問題ではなく個人的な問題であると考え、誰も聞いてくれるわけがないと感じているかもしれません。 いや、悩みとすら感じていないかもしれません。
自分という存在のなかでは、このような「〜である・〜でない」という境界線がいくつも引かれ、それが複雑に組合わさっています。にもかかわらず、私たちは日常、「ふつう・ふつうじゃない」の一本しか境界線を認めず、そしてふつうじゃない自己を見つめたがりません。そうして、自分のなかにもたくさんあるにちがいない考えるヒントや課題の数々を、封印しているのです。
ある人が自分の経験について語るのを聞くとき、必要になるのは、それと同じ経験を自分が持っているかどうかの検討ではなく、その話を自分自身のことにおきかえたら何がそれにあたるのかと翻訳してみることであり、ざわめきはじめるのは自分のなかのどの境界線なのかと吟味してみることではないでしょうか。
要するに、自分は何の当事者なのかと探究することが、何らかの問題の当事者の話を聞くということなのではないでしょうか。一言でいうならば、考える営みが考える営みを刺激するとき、です。そのように探究する耳が、語る声を促進するのではないか。そうして語り、また聞くことで、互いが当事者になってゆくこと。それが「聞く耳を持つ社会」の基本イメージなのではないか。
--以上、また考え直すかもしれませんが、このページを綴ってきて気づいたり、あるいは改めて考えさせられた、コミュニケーションにとっての課題群でした。