夕闇迫れば

All cats in the dark

■ ホーム > 古テクスト  >  第1集  > そこで 

 【要旨】 私はいままで問題について自覚的ではなかった。ここでは、主にコミュニケーションの観点から、問題を考えてみたい。

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そこで

 が、ふと気づくと私は、

 最後の点は、いま思えば、大変な問題です。もしも私が工学や美術や教職を志していたら、色弱を理由に、進路が閉ざされていたかも知れないのです。
 しかも、その後になってほとんど問題なく撤廃されてきているような制限・制約も多いのです。

 私がそんな目にあわなかったのは、たまたま別の分野に関心をもったからに過ぎません。
 たまたま? いや、それは、子どものころから「そのような道には進めないのだ」と言い聞かされてきた結果(5)かも、知れません。

 「差別につきあたって困っている人がいる」? それは私のことじゃなかったのか? それをなぜ今まで?
 そんな思いが、このコーナーを作らせました。次のようなことを考えてみたいと思ったのです。

 【要旨】

 1)私は今までも自分が「色弱」であることを隠してはいませんでしたが、しかし、「色盲・色弱」にまつわる社会問題について自覚した上で、ではありませんでした。これからは自覚的でありたい。

 2)私は、ひょっとしたら、隠さなかったことで、結果的にかえって無自覚に、先入観をふりまいてしまっていたかも、知れません。そのような落とし穴にどうやって入ってしまったのだろう。偏見なんか持ちたくないのに、私はどうして自分と他者を差別化してしまったのだろう。

 3)その自戒もこめて、「知っていたハズなのに知らなかった」ことが、かくも多いのはなぜだろう。色覚「異常」は、決して珍しいものではない。なのにどうして? 私たちはそれをいかに語ってきただろう。それについての「発信」「受信」はいかに枠づけられていたのだろうか。 

 4)一般に、「理解」しようとして起こるバリアの方が、「悪意に満ちた偏見」よりも、重大かも知れない。つまり、善意の人間同士でのコミュニケーションにおけるズレを、とくに重視して考えたい。

 これらは、ひとり色覚の問題にとどまるものではないし、「昔のこと」でもないように思うのです。

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ノーツ

 (1) ホームページの色彩
 色とりどりに作ることのできるネット環境は、色覚少数者にとっては、「社会的に作られた支障」の新たな源泉となりえます。→本文へ

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 (2) 「緑板に赤チョーク」
 黒板は「緑板」です。そこに赤チョーク。従来の赤チョークは暗いので 、見づらいという経験は私だけではないはずですし、色覚「正常」の人にも見づらいはず。
 これについて、赤チョークに工夫を凝らす例も出ています。天神チョーク(3)をご参照。

 (3) 天神チョーク
 試みに使ってみました。見た目として、従来の赤に比べれば柿色がかっていると思います。ともあれ、黒板に書いてみた感じとしては、「明るい! 見やすい!」。
 問題は、消したときに生じます。一般に、古い黒板とか、古い黒板消しですと、なかなかすっきりとふきとれず、黒板がなにか白くキリのかかったような状態になることがありますね、あの上に書かれると、従来の赤より見づらくなります。もっとも、この場合は白チョークや黄色チョークも見づらくなりますが。 →本文へ

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 (4) 教室における見えづらいプレゼンテーションや資料
 最近ですと、プロジェクター映写に赤のポインター。見えづらいと訴える方があります。私の場合、見えないわけではないのですが、神経を逆なでされる気持ちになります。そもそも、ゆらゆらして余り機能的ではないのでは。見ていて感じるイライラはそちらの原因の方が大きいかも知れません。
 また、教室で配慮すべきものの一つとして地理の学習に使う「地図帳」があります。緑の平野に赤の都市。「これは仕方ないのでは……」と思う方は、最近の全日空(ANA)の機内誌に添付されている地図をごらんください。見やすいようにと色使いに配慮がおこなわれています。全体としては異論がありうるかもしれないけれども、「普通の地図帳にももっと工夫の余地があるはずだ」ということがわかります。→本文へ

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 (5) 早期告知論
 いずれ進路が制限されるのだから早いうちに告知してそなえさせた方がよい、との考えがありま した。私は、これには「反対」です。その理由は、村上元彦『どうしてものが見えるのか』(1995年、岩波新書)の178〜179頁と、ほぼ同じ く、次の通りです。  

  1. 色覚のことや職業のことを考え、理解できる年頃になってからでよい。年端もゆかぬ子ども時代から言い聞かせるのは一種の ”洗脳” である。
  2. 不条理な社会環境をそのままに放置しておいて適応を迫るのは、理不尽な人権侵害と呼ぶべきことだ。
  3. 後述するが、告知しても、それへのケアや、それに応じた指導など、「一切」なされなかった。それは「昔のこと」なのだろうか? これから学校や社会がそうしてゆくための準備はあるのだろうか?
 ただし、やみくもに検査不要論を唱えるものではありません。→本文へ

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