夕闇迫れば

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■ ホーム > 古テクスト  >  第2集  > 検査とケアと改革と 

 【要旨】 自分の遺伝情報を「知らされない権利」があってよいと思う。もっとも、自分の色覚特性について「知る権利」があるという主張にも一理ある。が、いずれにせよ、検査の哲学が変更され、社会条件の改善に向けた努力とセットでなければならない。

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検査とケアと改革と

 いや、私は、ひょっとしたら自家撞着することを書いてしまったかもしれません。

 先にも引用した部分、すなわち、

 「医学部は避けた方がいい、学校の先生もムリかも」といった、一生を左右する指導をされながら、精密検査もなければ何の説明もなかったとは、いったいどういうわけだったのでしょうか。

 私はこう書いたとき、「自分の色覚をもっと詳しく知りたい」と、言うつもりだったのでしょうか?

 つまり、学校で「精密検査」がおこなわれ、そのうえで将来の進路について「十分な説明」がなされれば、それでよかったのでしょうか?

 このあたりは、意見が分かれるところかも知れません。私は、そんな「説明」などいらないという考えに今は至っています。けれども、いや必要だという考えも、ありうるでしょう。それも理解できるのです。

1 知らされない権利

 いままで見てきた検査表や職業分類表は、確かに、おかしなものです。しかし、それらは「精密な検査で正しいアドバイスを」という精神が生み出したものであったかも しれません。石原式色盲検査表の「解説」の中にも、「本人の為に」といった文言がありました。今日から見ての当否はさておき、当時の中で、「本人の為に」との文言は、きわめて“善意”の思想と解釈されていたかもしれません。少なくとも、書いた本人はそのつもりだったのでしょう。

 私は、この「本人の為に」という“善意”の内実を、検討しなければいけないと思います。 露骨な差別意識よりも、そちらのほうがよほど問題含みであると感じるからです。

 その善意の問題性は、それが一方的な裁定であることにあります。すなわち、具体的に検証されたわけでもない「なんとなく定義された状況」を前提として、あるいは社会の現在の条件を与件として、「そんな中に投入されたら本人の生存闘争に不利なので」との根拠で、「だから初めからあきらめておけ」というのが、その“善意”の実際の姿だったのではないでしょうか。

 いや、その善意の問題性は、「正しいアドバイス」について、なんら責任を負っていないことです。実際には何の助言もおこなわれていないのに、「検査がなくなったら特性が把握できないから本人の不利益」という主張だけがなされる。そのように主張するならば、そのいう正しいアドバイスがいかなるものなのか、本気で探究しなければならないでしょう。

 このような問題含みの善意は「悪意じゃないんだ」という言い訳にしかなりません。そこからは人生を尊重しようとする姿勢や、社会改革に向かう姿勢は出てこないでしょう。ここにおける科学者の罪は、「本人の為に」という自分の“善意”が人を選別する社会構造に荷担しているかもしれないことに気づいていない、それどころか自分が発明した工夫が人を不当に選別する社会をつくりあげてしまうかもしれないことに気づかない、その無邪気さにあることになります。

 このように進めてくればひとまず次のように言えないでしょうか。すなわち、

  1. 本人の人生に対するケアや支援であるという検査の哲学を確立すること
  2. 具体的に社会的条件の改善に向けた努力とセットであるべきこと。

 この正当化の転換なしに検査などするべきではない。当事者側から言えば、このことなしに検査され、自分に社会的な不利益をもたらす情報など「知らされない権利」がある、と。

2 知る権利

 しかしながら、異論もありうるでしょう。

 個々の具体的な人間の一生を考えてみると、 何年かかるかわからない社会整備など待っていられないという事情があるのも、確かなことです。現実的に進路を選択しなければならないタイミングというものはほんの数年間のあいだですし、その選択を現実のものとするための準備期間(たとえば専門的な勉強をするなど)を考慮にいれる必要もあります。その見地に立てば、残念な条件や構造であっても、その中で生きていかざるをえないのだから、自分の色覚特性について知っておく必要が生じるという意見が出てくるのも、ゆえあることでしょう。そのように主張される方々の思いも、否定されるべきではないと思います。

 私にしても、もしも自分の身体の特性ゆえに業務で大失敗をおかしてしまうかもしれない可能性が本当にあるとして、しかもそれにかかわる社会的条件の改善がとんでもなく大変なことで実現困難であることもまた明らかならば、そんな職業には就きたくないという気持ちがあるのが正直なところです。ここでは「知らされない権利」とは逆に、自分が本当にそれにあたるのかどうか「知る権利」がある、と言えるでしょう。

 しかし、これをもし「厳密に一律に」やろうとしたら、それは、あの分類表が示唆するような、恐るべき人間管理・遺伝管理の仕組みになってしまいかねません。ここからは、

  1. 一斉検査はゆるやかな基準でおこない、必要な場合にのみ、説明と同意のうえで、精密検査を受ける

 という体制が提案されることになるでしょう。

3 検査の哲学

 しかし、ここにおいて、検査の哲学の確立とカラー=バリア=フリーユニバーサル=デザインの探求は、いっそう強く進めなければなりません。なぜなら、ゆるやかなものになった検査によって「色覚異常」が見いだされたとき、検査の哲学が今のままなら、その当事者はますます“正当な根拠”をもって(ゆるやかにしてもひっかかるのだから本当にどうしようもない人たちだといった理由で)、社会生活から排除されることになりかねないからです。

 どこかで境界線を引かねばならないことは、残るかもしれない。重要なのは、その時、「だから一部の人は仕方ないんだ」と考えるのではなく、人権とはそのとき考慮すべきことなのだ、と考えることだと思います。つまりは、先のとおり、検査の哲学が変更され、社会条件の改善に向けた努力とセットでなければならないと思います。

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