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緑の犬: 「色盲検査表 解説」を読む

続 二重の過誤

1.なぞ 

矛盾か一貫か

 一見したところ、石原忍の『学校用色盲検査表』の「解説」には、大きな不思議が含まれている。

 同『検査表』は、日本で初めて学校用に普及した色覚検査表である。そして単に医学的な検査をおこなうにとどまらず、その冊子におさめられた「解説」が、「すべて色を取り扱う職業に色盲の適せないのは明らか」(「検査表」: 9)として制限を提唱したために、その後、数多くの色覚少数者が人生を根底から左右されることになった。

 そのようなわけで、同検査表は、臆断と乱暴な一般化がひきおこした理不尽な色覚差別の原点だとされることが多いのである。

 ところが、他方、その「解説」をすこし丁寧に読んでみると、「色盲のために過の起こった実例を余り多く耳にしない」のように、色覚によって過誤が起こるかどうかについて、慎重な表現をとっている箇所がいくつか見られるのである。

 類似の表現を一覧にすると次の【表1】のようになる。

【表1】 「色覚特性と過誤」記述例

文例1: 
 「赤緑色盲」といっても「赤と緑との全然区別ができないようなのはなくて多くは大きな鮮やかな色ならば赤でも緑でも見えるが、視角が小さくなって色が不飽和になれば赤と緑とを誤る程度のもの」(「検査表」: 6)。
文例2: 
 「男子の4−5%が色盲であるとすれば世の中に色盲者の数は非常に多いものである。しかるに吾人は色盲のために過の起こった実例をあまり多く耳にしない」(「検査表」: 7)。
文例3:
 「赤緑色盲者でも、色の鮮明なものならば赤でも緑でも通常区別ができる。これらの理由で、色盲のため実際に誤の起こることは余り多くはないのであるが」(「検査表」: 8)。

 これらの記述に素直に従う限り、要するに「大したことはない」と思えよう。

 この記述は、「色盲・色弱」と診断された人々の多くが抱く実感に近いものではないだろうか。たとえば、「困ったことといえば石原表が読めないことくらい」といった逸話は、おそらく枚挙にいとまがない。

 だとしたら、ここから予想できる結論は、「だから、かるがるしく進学や就職に制限を設けてはならない」であろう。しかし、事態は逆であった。

 過誤は「余り多くはない」というのに、幼少期から一斉検査、進路指導、職業制限……。これは色覚少数者が長年にわたって理不尽を感じてきた無理・矛盾であろう。

 『検査表』には、このように対立する(と見える)言説断片が、どうして同居しているのだろうか

課題と仮説

 この謎を解明するために、『学校用色盲検査表』(以下『検査表』)の「解説」について解釈をおこない、その論理や意味を読み解くのが、ここでの課題である。

 このなぞを解き明かすためには、いくぶん解釈学的なといえば大げさかもしれないが、ともあれテクストに即した検討(1)を試みなければならなさそうである。つまり、これは 『検査表』「解説」としては無理でも矛盾でもなかったのではないか。一貫して読まれるべき論理が、このテクストのなかには埋め込まれているのではないか、と。

 なお、始める前に、ひとつ断っておきたいことがある。私にとり医学は専門外である。だから、以下、いかなるコメントをした場合にも、医学的知見の真贋・優劣について判断・評価する意図はない。 

 また、それは著者である石原の「精神構造」や「意図」や「意識」や「主観」 、まして「人格」を云々しているのでもない(2)。むしろ、そんなことをしても無意味であるとさえ、私は考えている。私の眼前にあるのは、そして社会のなかにあって現実に力を発揮してきたのは、石原その人の意識や精神構造ではなく、このテクストの文言であるのだから。

 では、具体的な作業を通して、検討してみよう。

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2.「過誤」・「事故」の一覧

 『検査表』は、色盲が原因とされる「過誤」や「事故」をいくつも列挙している(「検査表」: 8-9)。

 数えてみると、それは全部で10のエピソードである。【表2】に、それをまとめてみた。表中、「 」内は本文からの引用であり、エピソード名はここで便宜的に付したものである。私が依拠しているのは入手可能だった第14版(昭和15年3月発行)の原典である。

 【表2】 「過誤」・「事故」エピソード一覧

1.ある鉄道運転手
 「先年余の許に一人の鉄道の運転手が来て言うには、「自分は身体検査の時に色盲だと言われたが、色は何でもよく見えるので、未だ嘗て間違えたことがない。この草履の鼻緒の赤いのなどはよく見える」と、色盲と言われたのが大に不平のようすであった。然しその時の草履の鼻緒は実は濃い緑色であったのである。即ち自分では正しい積りでいても実際には間違っているのである。」
  出典: 直接見聞。
  字数: 172
  備考: 『学窓余談』に同一例の記述がある(石原 1941: 204-5)。『日本人の眼』にも同一例と思われる記述がある(石原 1942: 62-3)。
2.グミの実
 「子供の時、茱萸の実(3)を採りに行って未熟のものを沢山混ぜて持ち帰ったため、母親から叱られた。また茱萸の木に登ってその実を採って食べた所が、大に渋いのを食べたことがある。」
  出典: 「清水軍医」が「色盲の兵卒」から聴取。
  字数: 82
  備考: 『学窓余談』に同一例の記述がある(石原 1941: 204)。『日本人の眼』にも同一の例がある(石原 1942: 62)。いずれも、清水軍医による聴取であるとの断りはない。
3.桑の実
 「友達と共に桑の実(4)を採った時、自分には友達の如く敏捷に 取れなかった。又夜間燈火の下では、熟したものと未熟のものとの区別がつかない。」
  出典: 「清水軍医」が「色盲の兵卒」から聴取。
  字数: 64
  備考: 『学窓余談』に同一例の記述がある(石原 1941: 204)。清水軍医による聴取であるとの断りはない。
4.緑の犬
 「途上で草と同じ色の犬を見ることがある。嘗て緑色の犬と言うて同僚から笑われたことがあった。それ以来犬を見れば茶色、草は緑色と言うことにしている。然しこの二物はまったく似た色としか見えない。」
  出典: 「清水軍医」が「色盲の兵卒」から聴取。
  字数: 93
  備考: 『学窓余談』に同一例の記述がある(石原 1941: 204)。清水軍医による聴取であるとの断りはない。「ひどいのになりますと」との断りはあるが、こうした人が全体の何%程度にあたるのかは不明。『日本人の眼』にも言及例あり(石原 1942: 62)。
5.図画は苦手
 「小学校時代から他の学科は優等であったが、図画のみは常に色彩を誤って、教師から叱られた。」
  出典: 「清水軍医」が「色盲の兵卒」から聴取。
  字数: 43
  備考: 『学窓余談』に同一例の記述がある(石原 1941: 204)。清水軍医による聴取であるとの断りはない。
6.林の中の赤い布
 「林の中で測図をした時、樹の枝に結びつけてあった赤布が見えなかった為に、道に迷ったことがある。」
  出典:  「清水軍医」が「色盲の兵卒」から聴取。
  字数: 46
7.スウェーデンの列車衝突
 「最も初めにこの事に注意したのは我が明治八年の事である。この年に瑞典で汽車が衝突して九人の死者ができたのを、同国の生理学者ホルムグレーンが調査して、その衝突の原因は、運転手が色盲であって信号を見誤ったのであるということを発見した。それ以来人々が色盲の危険なことを知って注意し始めた。」
  出典:  不明。
  字数: 140
  備考: 『日本人の眼』にも言及例あり(石原 1942: 63)。
8.ノーフォーク沖の海
 「同じく明治八年に英国ノーフォルクの近海に於て汽船が衝突した。これは一方の船長が色盲で緑燈を赤燈と見誤って(5)舵をとったからである。」
  出典: 不明。
  字数: 64
9.マリネロ衝突
 「明治十年二月に西班牙[スペイン]の砲艦「マリネロ」が帆船に衝突してこれを沈没せしめたのは、帆船の船長が色盲で、砲艦の船燈を白色の港火とまちがえたからである。」
  出典:  不明。
  字数: 71 
10.テレサ沈没
 「また明治十二年にはギボラの港(6)において帆船「テレサ」が沈没した。これは船長が海岸の赤い港火を、建物の白い火と間違えたからである。」(「検査表」: 9)
  出典: 不明。
  字数: 63

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 こうした作表作業をしていると、なんとなく読んでいるだけの時と比べて、いろんなことに気づく。その一つは、エピソード「ある鉄道運転手」の突出性である。 整頓すると次のようになる。

  1. エピソード中、最多の文字数である。
  2. 人物の行動や言葉が引かれるなど、叙述がいちばん具体的である。
  3. 一次情報(直接の見聞)に依拠した叙述はこのエピソードのみである。
  4. 『学窓余談』(石原: 1941)、『日本人の眼』(石原: 1942)という、他の著書にも登場する。
  5. 4の場合も上述1・2・3があてはまる。

 他方、これに比して、「スウェーデンの列車衝突」や「ノーフォーク沖の海難」などは、 職業制限を訴えるためには非常に重要なエピソードだと思われるのに、それほど詳しくない。それぞれ、ほんの2〜3行ずつで、基本的な事実を把握することも難しい。

 そればかりか、「スウェーデンの列車衝突」や「ノーフォーク沖の海難」は、『学窓余談』(石原 1941)・『日本人の眼』(石原 1942)では、『検査表』よりももっと略された叙述となっている。

 【表3】に、それを挙げておいた。

【表3】 「スウェーデンの列車衝突」ほか異文

例文1 『学窓余談』 より:
 「西洋にはこれで汽車が衝突をしたり、汽船が沈没したりしたことが度々ありました。ですから色盲の人はよく職業を選んで就職しないと、とんでもないことになります」(石原 1941: 205)。
例文2 『日本人の眼』より:
 「色盲検査が厳重になったのも、もとはといえば、わが明治8年に、スウェーデン国で起こった汽車の衝突の原因が、機関士の色盲によるものであったことが判明して以来のことで」(石原 1942: 63)。

 具体的な事例の紹介とは言い難いほどの略述である。これと対照的に、「ある鉄道運転手」はむしろ詳述され続ける。

 次には、そのエピソードについてくわしく考えてみよう。

続 二重の過誤

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 (1) たとえば英語の読解練習をしているとき、どうも部分と部分とがうまく合わず、全体としての意味が通らないことがある。しかし、そういうときは 「これはヘンな文章なのだ」と決めてかからずに、むしろ自分が意味をとりちがえているのではないか、部分の意味を取りなおし、つなぎなおし、全体として通してみたらどうか、という検討をしてみたほうがよいことが多い。そして、多かれ少なかれテクストというものは、こういう作業を私たちに迫ってくるものであろう。
 だから、ここで言う「解釈」とは、日常語に言う「感想」のことではないし、なんとなくなされる作業でもない。一種の暗号読解作業である。
 むろん、そのようにしてテクストの論理とそこに浮かび上がる意味世界を読み解いたとしても、「だから 検査表が述べていることは正しい」と言いたいのではない。最初に意味がわからなかった文章の意味を取るという作業が、そのまま賛同ではないのと、それは同様である。
 むしろ逆に、私はこの色覚検査表解説の問題点をあらいだしたいと考えているのである。ただし、だからといって、執筆者の人格をあげつらおうとしているのではない。なぜなら、上記のような「解釈」を試みることと、「著者の意図や心情を察してみる」こととは、また別の作業だからである。→本文へ 

 (2) 石原が尊敬すべき人格の持ち主であったことは複数の伝記が述べているとおりなのであろう。とりわけ、かれが掲げた診療訓や診療所感などは、確かにその高い人徳を示すものとして、評価すべきである。
 だが、人物に対する賛辞や尊敬と、業績評価とを、混同してはならない。尊敬すべき人物の仕事であっても無謬であるとは限らない。業績を批判的に吟味したとしても、その人物の人格に嫌疑をかけることには必ずしもならない。むしろ、なにか問題を発見したとしても、その人物の悪意にその原因を求めてはならない。逆にとって、善意ならすべて正しかったことになりかねないからだ。
 つまり、方法的には、業績と人とは無関係であると、想定しなければならない。人物伝と作品評価は別の書き物なのだ。業績と人となりを結びつけるのは、その業績を批判する者を、人格の尊厳に対する卑賤な侵犯者にしたてあげるための仕掛け(つまり批判を未然に防ぐワナ)であるとさえ言える。関連して注釈1も参照。  →本文へ

 (3) 「茱萸」は植物のグミ。実ると赤い。お菓子のグミとは関係ない。 →本文へ 

 (4) 桑の木は養蚕がさかんな頃の日本では盛んに植えられた。童謡「赤とんぼ」にも「山の畑の桑の実を」(三木露風作詞)。実は緑→赤→濃い紫となり、初夏に実る。  →本文へ 

 (5) 船灯は一般に、マストが白、右舷が緑、左舷が赤。なお船灯の識別については高柳が1993年にテストをおこない、正常な人と色覚異常者の間に大きな差異が認められるかどうか疑問を呈している(高柳 1996: 117)。→本文へ

 (6) 「ギボラ」がどこなのか私にはわからない。また、この事例中の「赤い港火を、建物の白い火と間違え」について、高柳は、それが色覚特性に由来する過誤だとは「理解しがたい」としている(高柳 1996: 38) →本文へ

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