エピソード「ある鉄道運転手」で、件の運転手は言う。「自分は……色は何でもよく見えるので、未だ嘗て間違えたことがない。この草履の鼻緒の赤いのなどはよく見える」。しかしながら、色覚検査表によれば、「然しその時の草履の鼻緒は実は濃い緑色であったのである」。
こうして、このエピソードからは次の命題が導き出されている。−−「自分では正しいつもりでいても実際には間違っているのである」(「検査表」: 8)
この文言をいかに解するべきか。
まず、いわば字義通りに、「色覚少数者は自分がおかした過誤に気づかないという過誤をおかす」という意味にとってみよう。以下、この仮説的な解釈を「二重過誤の命題」と呼んでおこう。
この命題は、それが宛てられた人に論理上の誤り(つまりおかしなやりとり)を強いる落とし穴を含んでいるように思われる。以下に見てみよう。
「あなたはあなたのまちがいに気づいていない」。そう言われた人が、「はい」と応じたら、どうなるだろう。
- (1)超越
まず、それは二重過誤の命題にとって不都合であるように思われる。
簡便な比較のために、眠っているように見える人がいるとして、その人に「お前は眠っているということにお前は気づいていない」と語りかけたとしよう。これに対してその人から「その通りだ」と答えられたら、そもそも眠っていないことになる。
つまり、二重過誤の指摘に対して当事者が「はい」と応えるならば、これと似て、二重過誤の命題が成り立たなくなる。少なくとも、指摘されればすぐ自覚できる程度のものだということになるだろう。そんなにたやすく自分のまちがいに気づき、かつ、自分がそれを見過ごしやすいことにも気づくならば、その人は、そもそもそうやたらと間違うまい。
換言すれば、二重過誤の命題が正しいとすれば、当事者はそう容易に「はい」と答えることができるわけがないことになる。
つまり、「自分は無自覚であることを自覚できている」とか「自分の色覚異常を自分の色覚で正常に確認できている」とすれば、その言明は、睡眠中であることの自覚と同様、できるわけのない自己離脱ないし超越の誤りをおかしていることになる。「はい」と当事者が答えることがあっても、それは正直には自分では判断できていない、調子を合わせただけの、偽りの回答であることになる。
いま目覚めた人に対して「いま眠っていたことに気づいてなかっただろう」と言うのなら、大丈夫だろう。当事者は睡眠から抜け出しており、それ以前の状況と今の状況を比較すると、知らぬ間に時間がたって周囲の様子が変わっていることなどから、自分の意識の流れに途絶があると感じて、「確かにそのようだ」と応えることができる。
しかし、検査をこれになぞらえることはできないだろう。当事者にとり、検査によって体験されるのは、色々の色の点々の中に見えるはずだと他者が言う数字が、自分には別の数字に見え、あるいはその数字が見えないという、ただちには理解しがたい齟齬である。自分の知覚をその前後で比較できるようになるわけではない。他者の色覚と自分の色覚が比較できるようになるわけでもない。
そして「解説」が強調するのは、まさにこの自己からの離脱不可能性なのである(7)。「先天性色盲はいまだかつてその色を見た経験がない」(「検査表」: 7)。つまり、色覚少数者たちは自分のその色覚以外の色覚でモノを見たことがない、だから自分の色覚の特性を認識することはできない、と。
- (2)自己言及のパラドックス
別の表現をするならば、二重過誤の命題に対する「はい」の回答は、有名な自己言及のパラドックスの典型例となる。すなわち、「クレタ人はみな嘘つきである」という「その事実にクレタ人である私は気づいている」、というわけだ。前者が正しければ後者は虚偽の報告であり、後者が真実であるなら前者が成り立たない。
「クレタ人は嘘つきである」がパラドックスに陥らないためには、自己言及性をなくせばよい。つまり、これを述べている人がクレタ人でなければ、パラドックスではなくなる。また、この文が「すべてのクレタ人」(全称文)ではなく「クレタ人の大多数は」のような意味であり(つまり特称文)、この言明の主は例外的なクレタ人である、と第三者が判定すれば、この場合もパラドックスではなくなる。
しかし、二重過誤の命題が宛てられたことへの応答は自己への言及であらざるをえないし、その自分は例外的な存在だと自称してもその自己言及から抜け出すことはできまい。色覚検査表は、自己言及の背進のなかに当事者を閉じ込める論理でもあるわけである。
このようにして、二重過誤の命題に対して「はい」と答える者は、1)超越の誤謬か、同じことだが、2)自己言及のパラドクスか、いずれかに陥る。
では、当事者が「そうでしょうか?」と疑問を呈したり、「いや、そうではなくて」と否定したりしたら、どうなるだろうか。
ただちに問題となるのは、この疑問や否定の範囲である。つまり、「自分では正しいつもりでいても実際には間違っている」のなかのどこまでを懐疑し否定しているのか。具体的に、(1)「自分では正しいつもり」の懐疑・否定なのか、(2)「実際には間違っている」の懐疑・否定なのか、(3)その双方の懐疑・否定なのか。それぞれについて考えてみよう。
- (1)「正しいつもり」ではない
形式的に考えると、これにも次の二種類があろう。a)正しい「つもり」なのではなく実際に正しい、と、b)「正しい」つもりではなく間違っているつもり、である。
懐疑・否定が、ここだけに向けられており、「実際に間違っている」には向けられていない場合を考えてみよう。
a)「自分の色覚は正しいが、実際には過誤をおかす」。これでは意味をなさない。うっかり者やミスの確率のことを言っているのであれば意味をなすことはできるだろうが、それは明らかに主題外だ。
b)「自分の色覚は間違っていると知っており、また、実際にも間違いをおかす」。一見したところ診断を素直に受け容れているように見える。だが、そうではなく、これはそもそも診断に対する論駁なのであるから、診断前から自己の特性と過誤とを自覚していたことになろう。当事者は事実に気づいていたのにそれを隠蔽していた確信犯だったことになる。
- (2)「間違って」いない
懐疑・否定が「自分では正しいつもり」には向けられておらず、つまりそれについては判断保留であり、「実際には間違っている」だけ懐疑・否定されている場合を考えてみよう。
c)「自分の色覚についてはさておき、実際に過誤はおかさない」。この場合、当事者は、自分の色覚を問題とせず、つまり根拠もなしに、自分が過誤をおかすことはありえないと、強弁を弄していることになる。
- (3)二重の否定
「正しいつもり」に対する二通りの懐疑・否定、つまり「実際に正しい」と「間違っているつもり」に対して、「実際に間違っている」に対する懐疑・否定、つまり「実際に過誤はおかさない」を組み合わせてみると、次の二つになる。
d)「自分の色覚は正しい」そして「実際に過誤はおかさない」。この場合には、自分の色覚に対する自己判断を含んでいるので、超越の問題が発生する。
e)「自分の色覚はまちがっている」しかし「実際に過誤はおかさない」。これは強弁の誤りとなろう。
このようにして、二重過誤の命題に対してあえて「いいえ」と答える者は、超越や強弁を弄する者であることになろう。その人は事実の隠蔽者であり、あるいは論理能力に欠如した者である、ということになる。
以上のように、二重過誤の命題は、当事者が「はい」と答えても「いいえ」と答えても、その人に論理的なまちがいを犯させる。この命題の中心的なメッセージは「応答するな」ということにつきる。これが宛てられた人は沈黙するしかない。そういう論理構造をこの命題は持っているのである(8)。
言い直せば、二重過誤の命題は、状況を定義する権利の独占宣言にほかならない。
となると、色覚問題の当事者とは、色覚検査で表1は読めたが表3は読みづらいといった結果を持つ者であるという、単にそれのみではないことになる。そうではなくて、色覚検査の結果を引き合いにして、この「二重過誤の命題」が宛てられた人のことである。
つまり、色覚問題の当事者とは、進学・職業・結婚といった人生の重大事についての選択権を制限されているにもかかわらず、自分の状況や境遇について、意見を述べたり態度を表明したりする権利を奪い取られた人のことだ。そのようにして自己の色覚や一身の処遇について語る言葉をうばわれた人々すべてのことだ。