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緑の犬: 「色盲検査表 解説」を読む

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4. 隠蔽と偽装

緑の犬

 「緑の犬」は、「ある鉄道運転手」と 、決定的に異なっている。自分の色覚特性が他とちがっている(らしい)と気づいている点だ。

 そして「緑の犬」は、「ある鉄道運転手」に次いで、突出した地位にある。すなわち、このエピソードは、『検査表』においては、「清水軍医」からの伝聞情報として登場しただけだったが、それでも同じく清水軍医を源泉とする5つのエピソードの中では最もたくさんの文字から成り、詳しい。他の著書においてもそのパターンが繰り返されている(石原 1941: 203-4; 1942: 62)。

 【表4】 「緑の犬」エピソード叙述一覧

文例1 『色盲検査表』:
 「途上で草と同じ色の犬を見ることがある。嘗て緑色の犬と言うて同僚から笑われたことがあった。それ以来犬を見れば茶色、草は緑色と言うことにしている。然しこの二物はまったく似た色としか見えない 」(「検査表」: 8)。
文例2 『学窓余談』:
 「ひどいのになりますと、道端に草と同じ色をした犬がいたから、これは青い犬だといったら友達に笑われたそうです。それから後は自分でも気をつけて、犬を見たらば茶色というし草ならば青いということにしているが、しかし実際は犬と草とが同じ色にしかみえないといった人もあります」(石原 1941: 204)。
文例3 『日本人の眼』:
 「また甚だしきは、道を歩いている茶色の犬を見て、道端の草と同色であると思って『緑の犬が歩いている』などといって友人に笑われたという例などもある」(石原 1942: 62)。

 「緑の犬」の当事者は、行為上の齟齬(色呼称が異なる、対象物をとりちがえる)をきっかけに近しい他者から笑われたりした経験によって、自分の色覚特性の固有性を自覚している。つまり、いまや「二重の過誤」状態ではない。そのうえで、他者と調子を合わせることによって、自己の色覚特性をおおいかくし、なんでもないふりをしている。

 つまり、これはいわば「隠蔽と偽装」の事例だと言える(注:私はこの言葉づかいによって当事者を論難しているのではない。「そうと見なされている」ことについて、これらの言葉をあててみただけのことである)。

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ダン=ポイント

 ここで團伊玖磨の体験を想起しよう。8歳だった團は、描いた絵の色使いを無知な教師に叱責され、それをみなのまえにさらされて、級友から笑われた。團には「一切が何のことやらわからなかった」。立ちすくんで、泣くしかなかった。それが苦痛になった團は、やがて図工の授業がある日には学校をずる休みするようになる。「美を習うべき図画の教室で、僕は屈辱を習い、憎悪を習い、嘘を習得したのである」(團 1977: 44)。

 叱責、嘲笑。私はどうやら、通常ならざることを言ったか、した、ようだ。周囲は私の色使いや色呼称についてそれを感じているらしいのだが、それが何のことだか、私にはわからない。わからないので、弁明も是正もしようがない。

 この、立ちすくんで狼狽するしかない瞬間を、色覚体験における「ダン=ポイント」と仮に呼んでおこう。それは「二重の過誤」から「隠蔽と偽装」への転換点である。

 「ある鉄道運転手」再考

 さて、ここで問題なのだが、緑の鼻緒を赤と呼んだ、例の「ある鉄道運転手」は、この「ダン=ポイント」にそれまで一度も至ったことがなかったのだろうか。

 その運転手の置かれている事態を想像してみよう。いくつかが想像できる。まず第一は次のようなケースである。

 想定 a :
 この運転手には、いわゆる「緑」と「赤」とを判別することが困難なのだが、かれはいつも両者を「赤」と呼んでいる。

 だとしたら、この運転手には、草履の場合と同様に、緑の服と赤の服が判別しにくい、ということが起こりえよう。そして、両者をいつも赤と呼んでいるのなら、当の人にとっては赤いタケや赤いヨモギすら存在するかもしれない。しかし、その色についていっさい発言しないのであればまだしも、これでは世界がいたるところダン=ポイントだらけになるのではないだろうか。つまり、「緑の犬」と同様に、他者の色呼称とズレをきたして、驚かれることになる。この事態が長く続くとは思えない(9)

 では 運転手が置かれているのは次のような事態だろうか。

 想定 b :
 この運転手は、周囲の人に合わせて「鼻緒を見れば赤」と言うことにしている。その点では「緑の犬」と同様だが、しかし「緑の犬」とはちがって、この色呼称について、いままで他者とズレが起こったことがない。その結果、この運転手は、人はみな鼻緒の色をいつも「赤」と呼んでいるのだと信じている。それでこのたびもいつものとおり「鼻緒を見れば赤」式に、答えた。

 たしかに、私たちの色呼称はきわめて曖昧である。いや、色の呼び方に関する限り大多数の人が色盲同然と言ってよい。およそ次のように。

 1)色の名が定まっているとは限らない。青と緑が典型だろう。石原の記述じたい、「緑の犬」なのか「青い犬」なのかわからない。一般的にも、山でホトトギスが鳴く「新緑」の季節には「目に青葉」が飛びこんでくる。「緑」っぽい交通信号も「青信号」になる。

 2)慣用句としては、そもそも色を指していない場合もある。たとえば「緑の黒髪」とか「嬰児(みどりご)」の「みどり」は、つやつやしている様子、やわらかく瑞々しい様子を言う。「まっかなウソ」を口にして「白々しい」態度でいる人の腹の中が「真っ黒」だというのも、色を指してはいないだろう。

 3)特定の色の印象を与えはするが実際の知覚とはちがう色表現もある。たとえば、夏の海辺で、若い男女が「恋の季節」におちいるとき、空には「まっかに燃えた太陽」が輝いている。これが、太陽が本当に赤く見える夜明けや日没を指しているとは限るまい。黒板を「緑板」と呼ぶ人もいない。

 このような「色」表現の経験的根拠や論理必然性をたずねてみる人はあまりおるまい。そしてたいていの場合、それで問題は生じない(10)

 これと同様に、くだんの運転手にとって、「鼻緒」が「赤」であるのは、言葉の慣用的使用法(11)としてにすぎなかった、というわけである。

 しかし、いくら「赤い鼻緒のじょじょはいて」という童謡があるにしても(「春よ来い」は大正12年の作品)、夏の太陽がまっかで木々が青々としているほどに、鼻緒は赤とは限るまい。鼻緒ときたら赤と呼び続けるのは、やはり「ダン=ポイント」だらけとなろう。

 となると、この運転手は次のような事態にあるのだろうか。

 想定 c :
 この運転手は、他者の色覚と自分の色覚にちがいがあることをじつは承知している。しかし、そのちがいの露見をおそれ、あるいはちがいを否認しようとして、故意に「赤」と言った。

 これは明らかに「ダン=ポイント」を通過しているだろう。つまり、これは「緑の犬」エピソードと同種のものである、ということになる。

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 命題の再解釈

 もしも想定 c だとすれば、このエピソードについて言われている「自分では正しいつもりでいても実際には間違っている」について、解釈をとりかえなければならない。

 すなわち、この人は、二重の過誤ではなく、露呈し自認した自分の負の属性について「隠蔽と偽装」に従事している状態にある。しかし、いくら正しいふりをしても馬脚を露わさずにはいない、にもかかわらず、その露呈に気づかない、認めようとしない。つまり、「うまくごまかせると思いこんでいる」ということだ。

 確かに、当の運転手の状況が c  のような事態であったとしたら、例の鼻緒を赤と呼んだことじたい、ずいぶん無茶な、のるかそるかの、大ばくちだったであろう。

 ここから生じる色覚少数者の印象は、自分の色覚について単に「自覚がない」というものにとどまらないだろう。そうではなく、色覚少数者たちは、自分の色覚特性をおおいかくし、ちがいを否認するために、いちかばちかの虚偽をさえ述べる、そうやって窮地をやりすごそうとする習いを身につけているものだ、ということになる。

 こうしてやはり色覚少数者は発言権を失う。 しかも、その負性は、「二重の過誤」の場合よりもいっそうひどいであろう。というのも、「緑の犬」の場合は、色覚特性を自己理解できている詐称者であることになるからである。
 こうして、危険なのはそのような人格であることになる。

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 注

 (9) ドルトンにまつわる「言い伝え」も、私には不可思議に思われる。
 大山正、『色彩心理学入門』によれば、ドルトンは26歳になるまで自己の色覚の異常に気づかなかった。母親へのプレゼントに「青黒味をおびた褐色」の靴下を買ったところ、それは母親にとっては「桜の花のように赤い」色だったので、初めて気づいた、とのこと。
 これについての大山の推論は次のようになる。

 「先天性の色覚異常の場合、一度も正常者の色覚を体験したことがないから、自分の色覚と正常者の色覚を比較する方法がないわけである。また幼時に色名を覚えたときにも、すでに色覚異常であったから、赤という色名も緑という色名も、正常者とは違ったその人自身の色覚的体験と結びついて覚えてしまっているのであろう。/したがって、自分の色覚が他の人と違うことは、色覚そのものや色覚を表わす色名の差異としてではなく、色の区別の不正確な点や、上記のように服装などにおける色の選択……[略]……言いかえると、行動上の異常で正常者と異なることによってのみ、色覚の異常が検出されうるのである」(大山 1994: 36-7頁)。

 私には生理学・心理学の詳細はわからないが、しかし、この説明の前半は非常に不可解に思える。
 (1)「正常者」なら、自己の色覚と他者の色覚を「比較する方法」があるのであろうか。幼児から自分が見ていた色と一般的な色呼称との対応の真偽を、自分の色覚の外に出て、確認することができるのであろうか。そうではあるまい。つまり、後天的に色覚に大きな変化をきたした経験を持つ人以外は、誰も自分の色覚以外の色覚でものを見た経験などない。
 だとしたら、私たちが他者も自分と同じ色を見ているにちがいないと想定するのは、上の引用文の後半にあるように、ただ「行動上」の齟齬が生じない限りにおいての推測として、に過ぎまい。
 しかし、だとしたら次の疑問が浮かぶ。すなわち、(2)このエピソードが本当なら、ドルトンは26歳になるまで服装の色を自分で選ぼうとしたことも色のついた絵を描こうとしたことも、つまり色にかかわる行動をとったことがない、ということになるのだろうか。私にはきわめてまれなことではないかと思われるが、生活条件によってはありえるのだろうか。
 だとしたら逆に、團が8歳の時点で他の生徒と行為上の齟齬をきたした条件も浮かび上がろう。すなわち、皆で一斉に同じ画を描く、という学校教育である。→本文へ

 (10) 念のため、この現象は日本語に特殊なことではない。英語でも、たとえば日本語の未熟なという語義の「青い」にあたるのは green である。黒板 blackboard については green blackboard という用例もある。日本語の場合と同様、blackboard がすでに色指定の言葉ではなくなっているのであろう。 →本文へ

 (11) 色を言葉で言い表すのは、味を言葉で言い表すのと同様、そもそも難しい。うまく言い表したとしても、それで感覚が伝送・伝達されるわけでもない。 だから、本当の色を言い当てているかどうかは問題にならないまま慣用になる。色覚が一致できるかどうか、本当のところはわからない。これを交通信号に使おうとするほうが、まちがっていると考えることさえできる。果たして、「のろし」を原始的だと笑うことができるだろうか? →本文へ

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