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緑の犬: 「色盲検査表 解説」を読む

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5.告知場面の社会学

「ある鉄道運転手」異文

 「ある鉄道運転手」のエピソードは、まるで芥川龍之介の「藪の中」のごとくである。つまり、そのエピソードは、すくなくとも、私がいま手許で参照することのできる3冊の書物に登場するのだが、【表5】に示すように、そのそれぞれが互いに異なる叙述となっているのである。

【表5】 「ある鉄道運転手」異文

 文例1:
 「……[略]……通常大なる差支は起こらないのでそのまますんでしまうが、たまたま他人から注意を受けたりした時などに、始めてその誤を発見するのである。 先年余の許に一人の鉄道の運転手が来て言うには、「自分は身体検査の時に色盲だと言われたが、色は何でもよく見えるので、未だ嘗て間違えたことがない。この草履の鼻緒の赤いのなどはよく見える」と、色盲と言われたのが大に不平のようすであった。然しその時の草履の鼻緒は実は濃い緑色であったのである。即ち自分では正しい つもりでいても実際には間違っているのである」(「検査表」: 7-8)。
 文例2:
 「……[緑の犬エピソードに触れたあと]……こんなのはひどい方ですが、しかし中には自分で気がつかずにいて、間違いをしているということもあります。だいぶ前のことでしたが、鉄道の身体検査に色盲で不合格になったといって憤慨して大学病院へ検査を受けに来た人がありました。その時大学病院で使っていた草履の鼻緒は濃い緑色でしたが、その人はそれを知らないで『私は色は何でもよく見えるので、まだ一度も間違えたことがない、この草履の鼻緒の赤いのなどはよく見える』と申しました。かように緑色の鼻緒を赤いといって平気でいるのです。ですからこういう人が電車や汽車の運転をしたりすれば、随分あぶないわけです」(石原 1941: 204)。
 文例3:
 「甚だしい間違いをおかしながら最後までそれとわからずにいる場合もある。/かつて色盲検査法がいまだ進歩しなかった時分に、鉄道機関士をしていた者が色盲検査法の発達によって初めて色盲とわかり、その職を辞めさせられたことがあったが、その人が帝大病院に私を訪ねて来て言うには『私は長年鉄道の運転にたずさわっていましたが、いまだ一度も事故を起こしたことはありません。私は色を間違えるなどということは決してなかったつもりです。現に私が履いているこの草履の鼻緒の赤いのもよくわかります』と。ところがあにはからんやその時の大学の草履の鼻緒はこい緑色であったのである 。/色盲検査が厳重になったのも、もとはといえば、わが明治8年に、スウェーデン国で起こった汽車の衝突の原因が、機関士の色盲によるものであったことが判明して以来のことで……[略]……」(石原 1942: 62-3)。

 それぞれ、重要な事実関係すら違うし、印象も異なるように思われる。とりわけ興味深いことに、文例2や文例3は、文例1に比べて、ずいぶんと「危ない話」に変化しているように思われる。

 なぜだろうか。比較してみよう。

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 文例1:

 文脈上、その「運転手」は「たまたま」検診に訪れたかのようだ。だから、その人物の「大に不平」の理由も、単にこの場で「色盲と言われた」ことであるかのようだ。つまり、かれは診断結果を受け容れることができない。

 もっとも、このエピソードは、「たまたま……[略]……誤を発見する」という文に先導されて登場する。つまり、無自覚なままでいるのではなく、医師の指摘で「誤を発見する」話なのだと読めなくもない。

 文例2

 じつは「鉄道の身体検査に色盲で不合格になった」ことが明らかになる。文例1では触れられていなかった重要な事実である(文例1にも「身体検査」とはあるが「鉄道の身体検査」とは書いていない)。

 また、ここでは、その人が「運転手」と書かれていない。その人が列車の運転を「したりすれば」との文言ともあいまって、その「鉄道の身体検査」とははあたかも鉄道員の採用試験の一部であるかのようだ。

 となれば、この運転手の不平はただその場での診断に納得ができないだけのことではない。最初から明示されている採用条件に自分が合致しないことがすでに判明しているにもかかわらず、すぐにばれそうな虚偽を述べる。「誤を発見」するのではなく、自己弁護して「平気でいる」。
 それで「こういう人」が運転を「したりすれば」「随分あぶない」との印象が生じる。

 文例3

 さらに重大な事実が明らかになる。この運転手は「機関士」の任についてすでに長く、無事故であるにもかかわらず、色盲検査が導入された結果、クビになったのである。

 読者の同情はまずこの機関士のほうに向きそうだ。なにしろ失職の危機なのである。無事故の実績を訴えるのが当然ならば、初めて見る色覚検査の結果がにわかにはのみこみがたいというのも人情だろう、と。

 ところが、この文章の直前には、「甚だしい間違いをおかしながら最後までそれとわからずに」とある。また、直後に 「スウェーデンの列車衝突」がくる。つまり、この機関士は、いちかばちかの色知覚で事故スレスレの運転をしてきた危険人物ではないか、との印象が生じるだろう(12)

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表象の権力

 文例に応じて、その鉄道員が語ったというセリフも、3通りに書き分けられている。列挙すると次のようになる。

 文例1:

 「自分は身体検査の時に色盲だと言われたが、色は何でもよく見えるので、未だ嘗て間違えたことがない。この草履の鼻緒の赤いのなどはよく見える」。

 文例2:

 「私は色は何でもよく見えるので、まだ一度も間違えたことがない、この草履の鼻緒の赤いのなどはよく見える」。

 文例3:

 「私は長年鉄道の運転にたずさわっていましたが、いまだ一度も事故を起こしたことはありません。私は色を間違えるなどということは決してなかったつもりです。現に私が履いているこの草履の鼻緒の赤いのもよくわかります」。

 聞き手=書き手がほとんど如何様にも改変しうる権限をふるっていることがわかる。つまり、圧倒的な権力格差がここには存在することになる。

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告知場面の社会学

 いったいどうして、ただ色覚に一定の特性を持っていて、それに気づかないできたというだけの人が、これほど危険視される人物だとされてしまうのだろうか。考えようによれば、この運転士よりも、エピソード「緑の犬」の当事者などのほうがよほど過誤を犯しがちだと想像されてしまうようにも思われる。にもかかわらず、この運転手のエピソードの突出性。

 となると、このエピソードが、唯一、診断場面での直接見聞だということも、考慮せざるをえなくなってくるように思われる。

 この運転手はいま、グミの実をとりそこねたことを叱る母親や、緑の犬を笑う素人の知人、期待される色遣いをしない生徒に苛立つ無見識の教師……などの前ではなく、眼科医の前にいる。その状況においてなされているのは、単なる叱責・注意・嘲笑などなどではない。専門家による告知である。すなわち、この運転手は、ただ呆然としているだけであっても、専門家の指摘に耳を貸さない輩になってしまうのである。

 しかも、その眼科医=専門家は、色覚特性が過誤や事故にむすびつく危険性があると信じ、職業制限を唱えようとしている眼科医である。その告知は、ただ色覚特性についての医学的な事実を(インペアメントを)告げているばかりではない。実践上の過誤や事故の危険性、つまりは見込まれる社会的処遇についても告げている。

 この告知行為の多重性(12)は、当事者にとって重荷となる。というのも、医学的事実を受け容れることは、その社会的処遇の合理性、つまり過誤や事故の危険性について自覚することを求められることであるからだ。しかもこの場合、急性の病気や怪我とはちがい、一時的に休めば状態が変化するわけではないのである。つまり、この場合の医学的事実の告知は、市民社会の該当部分からの恒久的な排除を意味する。

 逆に、自分の色覚特性についての告知を素直に受容しない色覚少数者は、次のような否定をおこなっていることになる。

  1. 医学的な見地で言う色覚特性について受け容れることができず、過誤や事故の危険性も受け容れられない。
  2. 医学的な見地で言う色覚特性は認めることができても、それに起因する過誤や事故の危険性は否認している。
  3. 医学的な色覚特性を自覚し、過誤や事故の危険性も受容しておりながら、なお現在の職業に固執しようとしている。

 上の異文の場合、次第にこのリストの1から3へという度合いが強まっているように見える。

 診断場面とは一般に、クライエントの言葉の意味が日常生活とは異なる専門的な関連性のもとにおかれて意味を変換されてゆくプロセスである。ちょうど、背中が痛いという訴えが胃の問題だと変換されてゆくようにである。しかもこの場合、その変換は、医学の領分を超えたものとなっている。すなわち、色覚少数者は、治療やケアを受けるべき患者としてではなく、社会問題の原因として、それゆえ社会的措置の対象として、構築されたのである。

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注 

 (12) 鼻緒の「こい緑色」を「赤」と述べる人が、どうして、長年にわたって無事故でいられたのであろうか? それを検証して、もし偶然でないことが判明すれば、それは仮説に対する重大な反証となるばかりか、実践的にも「どのようにして安全でいられたのか」を解明する手がかりとなるだろう。−−そう受け止めてみるほうが科学的ではないかと私などには思われる。
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 (13) 医師による告知は一般に、多かれ少なかれ常に、医学的事実の告知と実践的指示との、二重性を帯びている。これは端的に医業の専門職性にかかわる問題であって、医師個人の問題ではない。たとえば私が大けがをした場合のことを考えてみよう。半年の加療を要するので、その間に仕事をするのはムリである、という判定をくだすのは、問題なく医師である。私はその診断書をもって、休暇や休業をとるであろうし、職場はそれに反駁しえないであろう。これは純粋に医学的な問題だと見なされやすいからである。だが、後遺症として歩行能力や言語中枢に支障をきたしたとき、職務に耐えられるかどうか。その判断を医師と職場のどちらがおこなうべきなのか、これは問題となる。近年では、職場・本人・家庭などが話し合う機会を設ける病院もある。
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