冒頭にかかげた「なぞ」は、こうだった。すなわち、『検査表』自体が色盲・色弱それ自体は大した問題ではないと言うのに、どうして進学や職業選択での制限が正当化されるのか。
答えはこうである。すなわち、『検査表』 の論理に従うならば、それは、その色覚特性にさしたる差し支えがないがゆえ「色盲者」が陥りがちな危険があるから。
前 告知場面の社会学
冒頭にかかげた「なぞ」は、こうだった。すなわち、『検査表』自体が色盲・色弱それ自体は大した問題ではないと言うのに、どうして進学や職業選択での制限が正当化されるのか。
答えはこうである。すなわち、『検査表』 の論理に従うならば、それは、その色覚特性にさしたる差し支えがないがゆえ「色盲者」が陥りがちな危険があるから。
そう解釈すれば、『検査表』の部分、部分が、つじつまのあう意味を帯び、体系的なつながりを持ちはじめないだろうか。
たとえば冒頭。「社会的に比較的重大なる意義」を持つ色覚特性は「専ら先天性色盲である」(「検査表」: 5)。
実際には、白内障や緑内障による色覚の変容、つまり「後天性」の問題もあることは、検査表も認めている。その当事者にとっては深刻な問題であろう。にもかかわらず、それをとりあげる必要がないのは、先天性の色盲・色弱に比べてこれらの疾病が大したことがないからではなく、
むしろ色覚の変容が深刻な問題となるので、それらの人々が自分の色覚の変化に気づきやすいためだ。これに比し、先天性の人は差し支えがないがゆえ自分の色覚の異常に気づかない。その危険性ゆえ「もっぱら先天性色盲」が「社会的に比較的重大なる意義」を持つのである、と。
またたとえば、「色盲のために起こった過の実例をあまり多く耳にしない」(「検査表」: 7)とか「色盲のため実際に誤の起こることは余り多くはないのであるが」(「検査表」: 8)といった文言。
これは、だから軽々しく職業制限などをすべきではない、というのではない。 本当は問題ないのだと色覚少数者をかばっているのでもない。逆である。きびしく制限すべき事情を説明しているのである。
なんとならば、それは実際におこっている「過」や「誤」を色覚少数者本人たちも自覚していないがゆえに報告がなされていないにすぎないからである。あるいは、「実際に誤の起こることは余り多くはない」がゆえに当事者は異常の事実を軽視し、隠蔽と偽装に従事する習慣を身につけてしまっている、指摘されても大したことじゃないと反駁する、だから危険なのである、から。
さらに次の文言、すなわち、色覚少数者は、色覚に異常があっても「一向不便とも思わないのである。たとえばいまだかつて汽車や電車を見たことのない者が、その便利なことを知らないのと同様であって、そのような人々は決して吾々がたまたま電車の不通になった時に感ずるような不便を日常感じているわけではない」(「検査表」: 7)。
これは、色覚少数者は自己の色覚に応じた生活技法を編み出しているからとくに不便があるわけではない、といったことを述べているのではない。 そうではなく、いまや世間は一般に「汽車や電車」の時代だというのに、色覚少数者たちはそれがないことを当然の前提にしているようなものだ。しかも、「他人もまた自分の通りだと思っている」(「検査表」: 7)。だから、自分のその当然視の特異性に気づかない。これでは、いくらその人々が自分はこれで不便ではないと訴えても、社会生活を共にすることは難しい、と、そう述べているわけである。
さて、昔の百科事典にはこう書かれていた。「色盲は日常生活においてはあまり支障はないが、職業の選択や進学に際して支障のある場合がある」(詳しくは第2集の第2章参照)。これと『検査表』は異なる論理であることがわかる。
『検査表』はこれとはちがう論理をもっていることがわかる。つまり、検査表は、日常生活に支障はないが進学や就業は制限するべきだ、と、矛盾した、無理なことを述べているのではない。そうではなく 、日常生活に支障はないので、それがゆえ、当事者は職業生活のうえで起こりうる支障や危険に気づかない、だからあらかじめ検出して進路制限しなければならない、というわけである。
それが『検査表』の論理であると解釈することができるだろう。
自身の特性を認めようとせず、過誤をも認めようとしない色覚少数者。これは、戦後にもひきつがれてゆく(いや強化されさえする)色盲・色弱者観である。
加藤金吉による1955年の『色覚及びその異常』はつぎのように述べている。
「異常者の大多数は、色覚検査などによって他から指摘される迄は、自己の異常を自覚していない。中には、指摘されても、自己の弁色能は決して他人に劣らない、と主張する者があるほどである。公益上の問題の生ずる所以である」(加藤 1955: 66-7)。
同じ書物はまたこうも述べている。
「共同の社会生活を送っている我々のうちには、大多数の人々とは異なった色覚機構を持っている少数の人々がいる。一方我々の生活上で色彩の占める地位は、益々其の重要性を加えている。従って、其れ等一部異常者の存在に拘らず、色彩に関する社会機構が円滑に運営されて行く為には、出来るだけ早期に異常者は異常者として指摘され且つ自覚することが必要である」 (加藤 1955: 83)。
つまり、色覚少数者は、色盲・色弱という色覚特性の、無自覚的あるいは自覚的な隠匿者である。 その「一部異常者」の存在ゆえに、大多数の人々に合わせた「色彩に関する社会機構」の円滑な運営がさまたげられるとしたら「公益上の問題」 だ。
換言すればこうなろうか、すなわち、「一部異常者」のために社会の色彩環境を改善するのは社会の重荷となるから、当事者にはそれを「自覚」してもらい、こうしたことが問題になる場所からは身を引いてもらおう、だからできるだけはやくあぶりだす必要がある、と。
嘲笑や叱責や就職差別などにさらされた当事者たちがとってしまう「隠蔽と偽装」のワークは、まさにこのような「異常者」観念とぴったり符合し、いやむしろ、そんな観念に餌を与えて育ててこなかったかどうか。
かえりみてみれば、團伊玖麿の当事者批判とカム=アウト要請は、この枠組みのなかで意味を持っていたことに気づく。当事者たちが身につける隠蔽と偽装の適応術は、團の指摘のように当事者を「少数者」にしてしまうだけではない。隠蔽と偽装による適応は、当事者を「公益上の問題」だと見なす構図に自らはまってしまうことだったのだ。
しかし隠蔽と偽装は、当事者がとりうる、否、とらざるをえない、生存手段でさえあった。というのも、石原にせよ加藤にせよ、色覚少数者に対して「自覚」を要求しながら、では当事者たちがどのようにして生きてゆけばよいのか、その助言も社会改革の提言も、上に引いた著作のなかでは全くおこなっていないのだから(14)。
とりわけ加藤においては、「色彩の占める地位は、益々其の重要性を加えている」という認識がある。色覚少数者は、その「円滑な運行」を妨げるのだから、自分の色覚特性を自覚せよ。これでは社会的な死刑宣告に等しかろう。逃れるには、隠すしかない。
こうして、大きな悪循環構造が見えてくる。すなわち、公益への敵対者であるとの宣言は、事実上の排除効果によって、それが宛てられた人々に隠蔽と偽装を強制し、その隠蔽と偽装をもって自らを的中させる。
これはR=K=マートンの指摘する「予言の自己成就」の典型例である。
色盲検査表とは、単に医学的な検査ではなく、この構造のかなめ、すなわちこの隠蔽と偽装を見破るためのあぶりだしの工夫だったということになるだろう。
『色覚及びその異常』は、色盲検査表の条件として、次の要件を挙げている。
「異常者は1人でも見逃されてはならぬ……詐色盲(15)或は色盲隠匿が許される方法ではいけない」(加藤 1955: 83)。
忘れてはならないのだが、これは「民主化」を遂げたはずの社会で出された論なのである。
昔は軍国主義でむちゃくちゃだった、論理もヘッタクレもなかった、しかし戦後には民主主義が満ちていた、と、そう解釈しがちである。だが、それは事実ではない。また、それでは教訓をつかみそこなう。
確かに、『色盲検査表』を作成した石原は軍医でもあり、それが作られた時代にはまだ人権感覚が希薄であったろう。だが、その色盲・色弱観が、戦後になってなお強化されているとしたら、問題のみなもとは軍国主義の残存にあるのではない、ということにならないだろうか。
そもそも、1921年に出された『検査表』「解説」が1989年まで使われ続けたのはなぜなのか。「昔は」式の説明では、解明できないにちがいない。
少数者は公益にとってのお荷物だという観念、「科学」の持つ権威、少数者を叱責し、お荷物視する文化の持続などは、果たして過去のことだろうか。
私たちの「いま」はどうだろうか。 「昔は軍国主義で……」といった説明に満足してしまうなら、それは、石原だけをマッド=サイエンティストとして悪者化し、そのことによって「いま」を免責してしまわないだろうか。
あるとき、カラー=バリアフリーの実践について、人に感想を求めたことがある。多くの中の一人だが、ある人はこう答えた。「そんなことをしたら、色覚異常の人が自分の異常に気づくことができないので、かえって危険だと思う」。
石原忍とその色覚検査表は、いわば日常意識の表現なのであろう。いま、かつてのような色覚検査がなされない中で、ますます少数者化された「色弱者」が、そのままの社会の中に放り出されるとき、「本人の危険回避のために」という理屈で検査が正当化され、社会環境の不問という前提の再生産が、なされていないだろうか。
色盲検査の廃止から、私たちは、過去について学ぶのではなく、現在について学ぶのでなくてはならないだろう。
前 告知場面の社会学
(14) ただし弱視について石原は『日本人の眼』において特殊教育の必要を強く訴えている。
「弱視の児童は、普通の国民学校での教育は受けられないが、明るいところで、大きな字を使用するとか、あるいはものの大きく見えるめがねを使用するとか、特別の方法を講ずれば教育のできるものである。/
外国ではつとに、彼らのための完備した教育施設があるが、わが国でも、かような者に対しては弱視学校または国民学校内に弱視学級を設けて、特別な教育をほどこす必要がある。しかしはなはだ遺憾ながらいまだ十分な施設がなく、東京市ではわずかに麻布区の南山国民学校に三学級の弱視学級があるのみで
極めて不完全な状態にあり、文明国としてまことに恥ずべきことである。速やかにこれがために策を講じ、彼らに完備した教育機関を与えるよう当局にねがってやまない」(石原 1942: 50-1)。
これに対して、色盲・色弱については、同書に当人の「練習」による改善可能性を示す次のような文言がある。「色盲、色弱は通常先天性のものであるから、とうていその治癒は望まれないが、しかし人体の器官は、一般に練習によってその機能を増進しうるものであるから、色の判別の練習をすることによってある程度までの増進は望み得るわけである。もとより健常な眼を有する人と同様にはなり得ないことは論をまたない」(石原 1942: 64)。
弱視について「大きな字」という解決策を知っている著者が、色覚問題への対応策として配色の改善をついに思いつかない。思考にとって「枠組み」がいかに重要であるかが物語られていよう。→本文へ
(15) 自らすすんで色盲を詐称するとはどのような事態なのか私は調べ得ていないが、憶測するに、消極的兵役拒否なのではないだろうか。ある自伝によれば、色覚異常とされた当事者は父親から次のように言われたという−−「そんなもん、なんともあらへん……[略]……ちゃんと物が見えるさかいに、かまへんやろ。それより、こんど戦争がおきたら、兵隊に取られんさかい、そのほうがええのんとちゃうか」(若林 2005: 27)。今は忘却されてしまっているが、徴兵検査で色盲検査がおこなわれていたことがかつては広く知られていたのであろう。→本文へ
2009年10月。2012年7月、一部表現と見出し等の手直し。