「この色、なに色?」
その質問に出会った子どものころの私は、答えるのがだんだんおっくうになっていきました。というのも、それはすごく難しい質問(1)だからです。
たぶん、それで私は「ふつうに見える」のように答えるようになっていきました。
【要旨】 私はうけこたえのなかで、いつのまにか 、「色盲」の人たちを引き合いにだし、それとの対比で自分を「ふつう」に入れようとしていた。
「この色、なに色?」
その質問に出会った子どものころの私は、答えるのがだんだんおっくうになっていきました。というのも、それはすごく難しい質問(1)だからです。
たぶん、それで私は「ふつうに見える」のように答えるようになっていきました。
また、その説明に、「色弱というのは、色盲の軽いもので、そんなにひどくない。特定の色が微妙なコントラストにあるとき少し見えづらいって程度。色盲と言われても、度合いの違い(2)で、そんなに変わらない」のようにも。
自分が落とし穴にはまりこんでいったのはこのあたりからではないかと思うのです。身体感覚が問題になるとき、はまりこみやすいパターン、と言えるかも知れません。
すなわち、ちがいを言うのは面倒。難しいのです。それで、「ふつう」と言いがちになる。
しかし、これでは、「色盲」よりはみんなに近い「色弱」だよと、 「色盲」と自分をまず差別化している(3)。そうして「ふつう」から一層遠い存在を想定することで、自分を「ふつう」の側に近づけようとしている。つまり、「だって色弱だから」を、「ふつう」の意味で用いている。でもそれでは「色盲」の人に失礼だということくらいは直感できるから、「度合いの違いでね」と、つけ足す。そして、それが正しいことなのかどうか知りませんでした。
高校生になって、「病気への誤解をなくすため理解を」というような文を書く頃になっても、同じ論理の中にいました。
(1) 難しい質問
身体感覚。たとえば「ハラ減った」とか「痛い」とか。
それはおそらくコミュニケーションというものの始源的な主題であったし、いまもそうであるにちがいありません。けれども、なぜそうなるかといえば、それは身体感覚が基本的に伝送不可能だからでしょう。つまり、できないことをしようとしているのがコミュニケーションなのです。
この根本問題を、私はジャン=ジャック=ルソーの言語起源論から学びました。
「この色、何色?」という問いは、私たちを、コミュニケーションのこの根本問題に直面させるのです。→本文へ
(2)「色盲」と「色弱」
光の赤・緑・青を感じる細胞のうち、どれかの色について感度の低いものがある場合が「色弱」、感度が欠落しているのではないかと思われるのが「色盲」、とされてきましたが、実は、元来、両者の境界はそれほど明確ではありませんでした。これは、当の眼科医がそう指摘していることです。→本文へ
(3)他者化
自分のことを説明しようとすると、えてして、「○○とはちがって私は」のように説明しがちになることがあります。
それがすべていけないわけではありません。たとえば、意見を述べ合う時、他者の意見との比較で自分の意見を組み立ててゆくことがあります。それがなければとても表現しづらいかもしれません。自己表現にとって他者は必要なのです。これは建設的なことでしょう。
しかし、ここでは、「私とは度合いのちがう色盲」を設定することによって、 「みんなと同じフツーの色覚」という主張をしています。私は特定の人々を私とはちがう人にしたてあげること(他者化)によって、私を「みんなのなかま」にしたのです。
ここでの問題は、ちがうとされた人の状況について調べたわけでもなければその人たちの意見を聞いたわけでもなく、また、共通とされるわれわれの内実について吟味しているわけでもない、という点にあるでしょう。いくつもの「無視」をはらんでいるのです。
このような言い方は、他にもたくさん見受けられるように思います。卑近な例を挙げれば、「〜のような人がいるじゃないですか」といった表現は、同じ構造でしょう。この場合、話者は、聞き手が自分のいう「〜のような人」にまさか当てはまるはずがないと前提し、ひいてはえてして相手に自分と同じ意見を暗に強制していることになるわけです。→本文へ