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■ ホーム > 古テクスト  >  第2集  > 遺伝管理社会 

 【要旨】 色覚を基準とした適格性の分類。それは、本当に実証研究したのだろうか? とてもそうとは思えない。しかし、これは悪意の差別ではなく、“当人のための”「適性検査」だと思われていたのではあるまいか。そう考えた方が教訓は大きい。

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遺伝管理社会

1 善意だとして

 現在の視点から過去を見て、「よくもまあこんなものを……」と考えるのは、容易なことです。そう考えるよりも、「これがもし善意に発することだったとしたら」と考えてみる方が、より大きな教訓を得ることができるように思われます。

 すなわち、確かめてはいませんが、これはおそらく、「適性」という考え方の一ヴァリエーションなのではないでしょうか。すなわち、職業に対する当人の適格性を判定しておいたほうが社会の能率にも資するし、当人も無駄な努力をしなくてすむ、という論理の一環ではないでしょうか。

 そして当時は、適性というものが、「親や世間が決めた仕事ではなく、自分に向いている仕事をするのが一番だ」という理屈にも結びついて、たとえば世襲制への批判根拠となり、職業選択の自由という新時代の人権に資するものだ、なんとなれば自由な選択には適性の情報が必要だから、とさえ考えられていたのではないでしょうか。
 少なくとも、そんな論理で正当化されていた可能性があると私は考えています。

 そう考えてみたら、「現代でも似たことが起こっていないか?」「ひょっとしたら私たちも同じことをしてはいないか?」ということにならないでしょうか。

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2 クイズのこたえ

 さて、そんな反省のためのヒントとして、答えです。

 注意:これは過去に関する資料です。

1.巫女さん
 d にあります。つまり支障なし。

2.人形劇団の役者
 d に、「人形芝居家」があります。つまり支障なし。

3.紙芝居屋さん
 不明。ただし、絵を自分で描くとするなら、b の「画家」「図案家」になりそう。「重大な過誤を来す」おそれあり。

4.経理係の事務員
 c に、「現金出納事務員」があります。つまり「やや困難」。きっと、「伝票の色分け」などのことを念頭に置いているのでしょう。 あるいは、「偽札対策」でしょうか。でも、「公認会計士」や「税理士」なら d だから支障なし、です。

5.人事課の事務員
 dに、「人事事務員」があります。支障なし。

6.大工さん
 d、つまり支障なし。

7.左官屋さん
 b、つまり「重大な過誤を来す」。

8.農家
 稲作や畑作や畜産は d つまり「色覚にほとんど関連のない」職種。しかし、養蚕や果樹になると c つまり「仕事の遂行にやや困難」。

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3 分類の問題

 さて、私には根本的な疑問が浮かびました。この分類の考案者は、このひとつひとつについて、ちゃんと実証研究をしたのでしょうか。私の印象では、とてもそうとは思えません。

 3.1 想像で分類?

 稲作や畑作と果樹とで、どちらが「色」により強く関連するかと聞かれても、返答に困ってしまいます。

 また、果樹栽培にしても、判定の根拠を科学的に実証するとなると、気候や土壌や技術や経験を統一して、色覚の「正常」な人と「異常」な人のリンゴ生産力?を比較する、といったことになると思いますが、そんな実証は、まず、していないでしょうし、不可能でしょう。

 3.2 技術革新は

 ラジオの修理は重大なミスをおかすかもしれないけれども、配電盤工は支障なし、蓄音機組立も支障なし、といった例は、明らかに当時の技術のあり方に規定された分類でしょう。

 職業・職種をこれだけ細かに分類し、それに「色覚異常の程度と関連を持たせ」るのなら、技術の変化に応じて毎年のように「改訂版」を出さなければならないはずです。朝令暮改にならざるをえないでしょう。

 技術によってそれだけ大きく左右されるのなら、それは、色盲や色弱のせいではありません。技術の問題です。

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 3.3 二重分類

 たとえば、「自然科学研究者」は「仕事の遂行に重大な過誤を来す」とされているのですが、「大学の教員」なら「色覚にほとんど関連のない」仕事とされています。自然科学系の大学教員はいったいどっちに入るのでしょう。

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 3.4 基準は?

 たとえば学校の教員は、基準を推し量ることが難しい、不思議な分類がなされています。

 私にはどうも想像できませんが、臆測するに、子どもの顔色が悪くなったときに気づくかどうか、といったことを想定しているのでしょうか。しかし、高学年になるほどそれが関係ないことになるとも思えませんし、「盲学校」なら大丈夫というのもそれでは理解できません。

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 3.5 現場の労働はダメ?

 管理的・専門的な職業ならOKだが現場労働はダメというパターンがあります。

 この典型は鉄道関係です。運転士や転轍手や連結手や車掌さんは人命に関わるミスを犯すので危険だが、駅長さんなら支障なし。たぶん「信号が見えない」との仮説があるのでしょう。

 それにしても「運転も転轍も連結も車掌も経験したことがない駅長さん」って、現実存在しうるのでしょうか?
 (そう書いたところ、ある方がメールで教えてくれました。採用の原理が違うので存在しうるそうです)。

 警察官・自衛官・海上保安官と官僚もこのケースでしょうか。

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 3.6 単純?労働なら可?

 いわば5の逆。管理的ないし専門的な職業はダメだが、現場労働ならOKというパターン。

 「工芸美術者」は b、つまり仕事の上で重大な過誤を犯すおそれがあるのに対して、「金属彫刻師」「ガラス細工工」は d、つまり支障なし。

 「印刷写真工」は b ですが、「写真師」は c 。

 「鉱山技術者」は b ですが、現場の鉱夫はたいてい d 。

 「電気技工」「家庭用ラジオ修理工」「電気通信機組立工」「電気通信機修理工」は b 、なのに、「電気通信機部品工」「電気機部品工」「電気企画組立工」は d。
 つまり、「電気通信機」の部品工はOKだけど組立や修理はだめ。

 「化学技術者」は b だけれど、たいていの化学工業の労働者は d 。

 「建築技術者」は b だけれど、大工さんは d 。 「畜産技術員」は c だけれど、「家畜飼育者」は d 。

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4 昔のこと?

 冒頭のことをくり返します。「こんな馬鹿なことをどうして……」と非難するのは、ある意味、たやすいことです。 しかし、この分類表を作った人も善意だったと仮定してみたら、どうなるでしょう。

 つまり、この表の作成者たちにとって、あるいは、その人々が生きていた時代の共通認識として、これは「排除」や「差別」の論理なのではなく、「こうしておけば支障を持った人の社会参加が容易になるだろう」、「特性を理解したうえで、それぞれの特性に応じた社会参加をすればよいのだ」といった理屈があったとしたら。

 ここには遺伝管理社会(1)の雛形が成立していた、と考えてもおかしくない気がします。つまり、遺伝のメカニズムのなかに、その人の能力発揮を左右するなんらかの本質がうめこまれており、個人がこれをどうすることもできないとしたら、その本質の何であるかを理解し、これに適合的な職業を配分するべきだ、という考え方です。

 それはひとり色覚の問題でしょうか。昔の問題でしょうか。

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ノーツ

 (1) 遺伝管理社会
 米本昌平の『遺伝管理社会―ナチスと近未来』 (1989年、弘文堂) から借用した用語。遺伝管理社会として典型なのはナチズムの優生学などですが、しかし、その原型はアカデミズムの世界に、そしてまたアメリカや日本にもありました。最も極端には民族差別やホロコースト(それと相似形の論理による他民族「保護」)の正当化という形態で現れます。
 ところで、遺伝によって得る資質は生得的な属性です。生得的な属性によって就業機会のちがいを是認するならば、それは業績主義の原理とはまっこうから対立することになります。
 業績、つまり人が出生後に努力して身につけたものに価値を認める、というのは、単純にいえば「努力を認めて評価する」という原理です。もっと端的に言えば、人一倍の努力はそれだけ他人よりもたくさんの報酬を受けても当然だと、結果における格差を是認することになります。しかし、がんばってみるための「機会」について、「生まれ」による格差があるなら、それはこの原理に反することになります。生まれは、本人の努力によっていかんともしがたいものだからです。
 ということはつまり、業績主義の世の中とは、機会は均等であるべきだが結果は不均等でよい、という哲学によってつくられているわけです。逆に言えば、業績以外に格差を是認する論理を認めない。そして、それが競争原理を成り立たせています。機会が不均等なら競争になりませんし、結果が均等でも競争になりません。
 生得的な属性によって人の社会的配置が決まってもよいと考えるのは、この「機会の平等」原理を崩してもよいとすることです。というのも、特定の人々は機会をとらえて他人と競い合ってみるまでもなく特定の職業に向いているとしたら、他の職業はないかと試してみることは無駄な努力だということになってしまうからです。 たとえば私がスポーツ選手になることなど、遺伝子レベルで向いておらず、最初からあきらめておくにこしたことはない、というわけです。
 この考え方に従うならば、「適性」というものがもしもまちがいなく正確に測定でき、その結果にもとづいて職業選択するような社会になれば、業績による競争の原理は、指導原理ではなくなるはずです。
 つまり、生まれながらの属性による決定という原理によるのであれば、私の職業適性は私にはいかんともしがたいことであることになります。私は特別にがんばったわけでも特別になまけたわけでもない。
 さて、ここで大きな問題が生じます。すなわち、そのような生得主義の社会において「結果の不均等」は是認されるか、という問題です。受け取る報酬に差があってよいことになるでしょうか。同一職業内の勤続年数や習熟度による差は別として、職業間の差は。
 是認されてもよい、というのならば、それは生得の属性による格差の是認ですから、いわば、天が人の上下に人をつくったことになります。近代社会の価値基準に照らせば、それは差別にあたるでしょう。
 だとすれば、生得主義の結果は均等でなくてはなりません。生得主義に立ちながら、この均等の生存権が認められないのなら、その社会は近代以前だということになります。つまり基本的人権が不平等であることをそれは意味するからです。それゆえ、もしも近代社会が遺伝を問題にするなら平等主義になるしかないのではないでしょうか。
 このように、実は社会編成の根本原則にかかわる論題でもあるように思います。→本文へ

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この項、おわり 前へ 次へ