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資料

石原忍 『小眼科学』より(2)

1929(昭和4)年『小眼科学』 (第2版)

以下は過去に関する資料です。取扱にはご注意ください。

 凡例

 以下の紹介では読者の公平な判断に資するために私からの批評や批判はできるだけ抑制したいのだが、しかし過去に関する資料の無批判な提示はかえって誤用や悪用を招くかもしれない。また、現在の私の観点からする対峙関係なしには過去は一般に有意味性を持たないだろうし、それぬきには関連性のある過去として選択されることもなかっただろう。
 そのことを考慮すれば、中立の装いはかえって無責任だと考えることもできる。そうしたわけで、解説には私の観点が加わっていることを、あらかじめご了承願いたい。本サイト「夕闇迫れば」の他の項目もあわせて参照されたい。

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 序文

 まず第一版の序。本書が学生用の教科書であること、なるべく日本人による業績をとりあげるよう努めたこと、研究室員の協力を得てできあがったものであることが、述べられている。

 第一版の序 本書編纂の目的は主として学生の教科用にあるをもって特に現代眼科学の綱要を明確に記述するに努めたり。しかしてなるべく我が国における実験を骨子とする方針を執りしもなお大部分外国における業績を採用せざるべからざるに至りしははなはだ遺憾なり。
 本書の編纂にあたり教室医局員諸氏の多大なる助力を得たることをここに記して感謝の意を表す。
 大正十四年 初夏
  於 東京帝国大学医学部眼科学教室    著 者 識 す

 「なるべく我が国における実験を骨子とする方針」は、科学も競争であった当時の雰囲気を反映している。

 石原のドイツ留学中の経験によれば、ドイツでは人々が「国産愛用」の風を持ち、科学的発見においてすら自国の科学者の「独創」であると主張する(石原 1941: 51-2頁)。科学も、軍事と同様、国威の表現であった。石原は、当時としてはごく自然だったであろう、愛国者なのであった。

 第二版の序でも「本邦における業績」が言われている。

 第二版の序 本版においては第一版に掲げたる編纂の目的ならびに方針に向って若干の改進を試み可及的本邦における業績の採用に努めなお了解を容易ならしむるために図画を増加したり。しかれども浅学不才なお足らざるところ多し将来ますます改良に努め以て漸次当初の目的に副わんことを期す。
 昭和三年 初春 著 者 識 す


 スキャンした表紙

 以下、同書のなかから「色覚」(27−31頁)について紹介してゆこう。

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 色覚と疾患

 「色覚」についての記述が始まるのは27頁からである。それはまず「色覚の障碍」から始まる。すなわち、

 【46】 色覚 ノ 障碍 ニハ 先天性 ト 後天性 ト アリ。先天性障碍 ハ 色覚 ノ 発育不全 ニ ヨリテ 起リ、後天性障碍 トハ 全ク 別種ノモノ ナリ。

 書体について、この項目のみ、原文の雰囲気を再現してみた。句読点ではなくスペースによる文節分けが特徴的である。

 本文はこのように【算用数字の番号】のついた項目に分かれている。以下、要約的に見ていくと−−

 【47】では、色覚が「網膜円錐体」の機能であることを述べている。
 【48】は、「眼疾患」によって「色視野に異常」が現れる場合があることについて述べている。
 【49】は、後天的な色覚異常について触れている。

 −−このように、記述はもっぱら疾患や異常についてである。後の版では、色覚の原理から説明するようになっている。

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 色盲・色弱の分類

 次の【50】(29頁)から【60】(31頁)に至る記述はすべていわゆる色盲・色弱に関するものである。

 まず、色盲・色弱のおおまかな分類が述べられている。引用文内の注釈1)2)は原典のものである(対応する注記は省略)。

 【50】 先天性色覚障碍はほとんど常に両眼に来たり。色覚の全く欠損せる全色盲と色覚のすべてが減弱せる全色弱と赤緑の色覚が欠損して青黄の色覚が健常なる紅緑色盲とその軽度なる紅緑色弱とあり。
  紅緑色盲および紅緑色弱はさらに二つの型に分類せられ紅緑色盲第一型1)同第二型2)紅緑色弱第一型同第二型となる〔56〕。

 文末の〔56〕は、第【56】項を参照せよとの指示である。

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 発育不全説

 次に、その原因が、【46】項で既述のとおり、眼の発育の不全−−ここでは中途での「停止」−−に求められている。これと後述の遺伝説との関係については、説明がなされていない。あるいは、発育の不全ないし停止が遺伝によってもたらされる、というふうに想定されているのだろうか。いずれにせよ、学説上の混乱ないし不確定あるいは未整理の状況が表現されているように感じられる。

 【51】 色覚の発育に関しフランクリン Ladd-Franklin 氏の仮定説によれば色覚は無色に始まり発育して三原色を感ずるに至るまでに次のごとき順序を経るもののごとし。

 この発育が中途において停止すれば前記のごとき各種の色覚障碍を生ずべし。

 以下、色盲・色弱の種類別に叙述が続く。

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 全色盲

 まずとりあげられるのは全色盲である。

 【52】 全色盲ははなはだ稀なる異常にして全く色を感ずることなく、外界を見ることあたかも吾人が写真を見るがごとくただ明暗濃淡を感ずるのみなり。かつ青色は明るく赤色は暗く見え、弱視ありて視力通常約0.1に減弱し、明所においては羞明ありて瞼裂を細くし、かつ眼球震盪症あり。両親の血族結婚なること多し〔*36〕。

 文中、「写真を見るがごとく」とは「ただ明暗濃淡」のみなのだから、すなわち今日にいう白黒写真のことである。

 なお「羞明」(しゅうめい)とは、通常以上にまぶしさを感じる病的な状態を指す。

 「眼球震盪」(がんきゅうしんとう)とは、激しく揺れ動くこと。「震盪」は、「脳震盪」(のうしんとう)と同じ漢字。

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 暗順応としての色盲

 全色盲は暗順応と類似しているという。

 【53】 全色盲の網膜は円錐体の機能を欠き杆状体の機能のみ存在するものなるべし。かく考えれば〔5〕によりて概ね前述の症状を説明することを得、なお健常者が全色盲者と共に暗室に入りその目を暗調応状態〔5〕となせば両者の目は殆ど全く同様の状態となることにより全色盲が暗調応眼にほかならざることを知る。

 文中の〔5〕は、同著4−5頁の【5】項をさす。

 この【53】項によれば、全色盲の網膜には、明るいところで色覚をつかさどる「円錐体」の機能がなく、暗いところで働く「杆状体」の機能のみがある。だから、暗室に入れば、「健常者」も「全色盲者」も「全く同様の状態」となる。

 つまり、暗室ではすべての人が「全色盲」なのである。となれば、色遣いが「バリア」となりうるのは、色覚少数者の場合だけに限らず、あらゆる人の場合であることになる。今日の視点からふりかえれば、これはユニバーサル・デザインの必要性を示唆しうる論点だと言えよう。
 しかし、石原はなぜそう思いつくことができなかったのか。弱視者については「大きな字」による特殊教育という解決策を提言している石原が(石原 1942: 50-1)、である。これには社会環境の与件化がからんでいるように思われる。すなわち、世の信号体系、とりわけ軍隊におけるそれは、軍医監であった石原においてすら、不可侵だったのではないだろうか。

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 顔写真


 意図的にぼかしてあります

 なお、本文にはここで「全色盲者」の顔写真が掲載されている。趣旨は必ずしも明記されていないが、「羞明」を示したものと思われる。なお同図の少年の顔写真は、およそ半世紀も後の1977年版にも、掲載されている。原典には、この少年の顔の他、女性の顔写真が一枚、掲載されている。

 【54】は、「全色弱」についての説明である。略す。

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 紅緑色盲・紅緑色弱

 説明は次に「紅緑色盲」に移る。

  【55】 紅緑色盲紅緑色弱との境界は明瞭ならず。ゆえにこの両者を総称して紅緑異常と言うを便とす。
 紅緑異常は色覚障碍中最も多くして総ての男子の約4.5%1)を占む。女子には少なくして男子の1/10以下なり。

 私はこれに該当する。ただし、私が告知を受けた当時(1970年前後)は「赤緑色盲」と言った。

 色盲と色弱との「境界」は「明瞭ならず」とされている。境界が明瞭ならぬものについて、いったいどのようにして「診断」し分けているのか、疑念が生じよう。これは「色盲」の定義じしんが曖昧であり、正常との境界、色盲と色弱との境界を、検査表が作っていることを意味しないのだろうか。−−こうした疑問に答える論述は見られない。
 この不明確さゆえ、当事者も、他者から色盲と色弱のちがいを尋ねられたとき、返答に窮することになる。この区分は、また、色覚少数者のあいだでの差別化の温床ともなろう。

 なお、ここに付されている注釈1)は、「4.5%」の根拠となるデータである。それは徴兵検査の結果であった。すなわち、

 大正5年より同8年に至る4カ年間に徴兵検査を受けたる者1796028人中紅緑異常者7981人あり。

 このデータも、のちの1977年版まで、用いられ続けている。
 おそらく唯一の一斉検査のデータが徴兵検査だったのであろう。これは近代における保健と軍事との関係を象徴的に表現しているように思われる。
 これを戦後に学校保健法がひきついだことについては、理論的・倫理的な検討が加えられるべきであろう。 学校で毎年のように一斉検査をおこなっているにもかかわらず1977年にいたるまで徴兵検査のデータが用いられ続けたというのも驚くべきことである。何のための教育であり保健なのかが問われることになろう。

 さて、次の【56】【57】は、「紅緑異常」についての記述である。原典では両項とも、ポイントが小さく落とされている。まず【56】は医学的所見。

 【56】 紅緑異常者は紅緑色覚が減弱し青黄色覚が健常なるものにして色覚の他に何ら眼の障碍を認めず。その第一型と第二型との別は第一型においては赤色とその補色なる帯青緑色とが無色に見え、第二型においては緑色とその補色なる帯紫赤色とが無色に見ゆるにあり(別*1)。
 したがって第一型にはスペクトルムの赤端が短縮して見ゆれども第二型においてはこのことなし。

 【57】では、「異常者」において生じる過誤・困難と、その無自覚性とを説いている。

 【57】 紅緑異常者は赤と緑と灰色とを差別すること困難にして、これがためしばしば緑葉と紅葉とを誤り、また果実の熟したるものと未熟のものとを区別し難きことあり。しかれどもその障碍が先天性なるをもって患者これを自覚せず検査によりて始めて発見せらるること多し。

 この「障碍が先天性なるをもって患者これを自覚せず」こそ、ふるいわけテスト(スクリーニング)とそれによる選別を正当化した論理にほかならない。
 確かに、自覚できない場合も多かろう。しかし、たとえば果実の熟したのと未熟なのとを「区別し難き」人は、そのとき、自分の色の識別が他の人のそれと異なることに気づかないのだろうか。J=ドルトンは行動上の齟齬が発生したことによって、それに気づいたのではなかっただろうか。石原自身、他者の色呼称とのズレを当事者が自覚している「緑の犬」エピソードを何度も語っているのだから、論理のつじつまが合わない場合が多数あるように思われる(ただし、「緑の犬」エピソードは本書には登場しない)。
 無自覚は、むしろ、色覚が問題化する環境がそれ以前には存在しなかったことや(色分けの信号体系がなかった)、あるいは、色覚を問題視しようとする眼科的知と日常感覚とのズレによって(たとえば30年前に「メタボリックシンドローム」と医者が言っても、これを「自覚」しうる一般人はほとんどいないであろうように)、生じたものである、という公算はないのだろうか。

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 遺伝

 【58】は、遺伝に関する説明である。

 【58】 紅緑異常には遺伝的関係あり。しかして女子には本病の現わるること少なきをもって本病がしばしば健常に見ゆるところの女子によりてその男児に遺伝することあり。

 きわめて簡略である。後の版では拡充されてゆくことになる。

 この部分にある「健常に見ゆるところの女子によりてその男児に遺伝」は、原理上は伴性遺伝の仕組みを説明したものであろうけれども、だとするなら誤った表現であろう。ただし、このように「女子」から遺伝の悪影響が「男児」に及ぶ、とする考え方は、20世紀初頭の優生学にしばしば見られる。石原に固有のことではない。

 また、女性に発現することが少ないことについての『学校用色盲検査表』における石原の評言は当時のジェンダーを反映している。すなわち、「女子には極めて少なくて男子の十分の一にも達しない。もしこれが女子に多かったならば、衣服の色合の選択等にあたって随分不都合の多いことであろうが、自然は誠によくできているものである」。この文言は、『日本人の眼』の65頁にも、ほぼそのまま登場する。
 「衣服の色合の選択」が「自然」状態で発生することとはとうてい思えないから、この文言は科学的にはもちろん誤りである。
 なお、この文言は『小眼科学』には登場しない。石原自身、非科学的であることを自覚したうえでの、一般向けに気を利かせた表現だったのだろうか。だとすればそれは、自然と文化の混同という日常知の特徴をよく示している。

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 検査法

 【59】は色盲の検査表についてである。自ら石原表を挙げている。

 【59】 先天性色覚障碍の検査法は種々あれどもその簡便にして正確なる点において石原式色盲検査表の右に出づるものなし1)。

 ここに付せられている脚注は、ナーゲル氏のアノマロスコープについてである。精密検査にはそれが必要だとされているのである。

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 色視症

 【60】は、「色視症」についての記述である。無色の物体が色づいて見えるという症状。注釈に白内障によっておこる青視症などが触れられている。

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 奥付

 出版状況を推し量ることができる。

 なお、価格は「正価 金拾圓」。発行所は「株式会社金原商店」である。

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 リンク

 1933年(昭和7)年、中国語版、『眼科学』より

 1934年(昭和9)年『小眼科学』(第4版)より

 1977年(昭和52年)『小眼科学』(改訂第17版)より

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